南極序章

参考文献

アリステア・マクリーン,越智道雄訳(1982):キャプテンクックの航海。早川書房,pp. 353

石沢賢二(2020):未知の南方大陸を探して-壊血病との闘い-.極地,vol.56, no.2, p.54-64

世界の歴史編集委員会(2009):もういちど読む山川世界史.山川出版社,pp. 310

吉村昭(1994):白い航跡,上・下.講談社文庫.

 

要旨

・古代ギリシャに未知の南方大陸が存在するだろうと考えられていた。

・大航海時代にマゼラン海峡の発見のほか,南極半島にも達していた可能性がある。

・長期の航海では壊血病で多くの船員が亡くなった。ビタミンCが有効だとわかり克服した。

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1.未知の南方大陸

古代ギリシャ

アリストテレス(BC384-BC322) 未知の大陸(テラ・オーストラリア・インコグニタ)北半球の大陸に対して南半球にもこれと均衡する大陸が存在するだろうと考えた。

プトレマイオス(83-168) プトレマイオスの世界図。アフリカが南方に広がり未知の南方大陸となっている。

https://www.chizu-seisaku.com/w_map/ptolemy/

(地図・路線図職工所より)

 

16世紀

オリテリウスの世界地図(1570)南方大陸が大きく描かれている。

https://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/070.htm

(京都外国語大学附属図書館)

 

2.大航海時代

クリストファー・コロンブス

ジェノバ生まれ,ポルトガルで航海術を学ぶ。スペインの援助を受けて,149283日船出,72日目に今日の西インド諸島に着く。1493年の航海でプエルトリコに着く。1498年南アメリカ大陸,1502-1503年には今日のホンジュラスやニカラグアに達する。

緯度は比較的容易にわかるので,コロンブスは,同じ緯度に沿って(緯線に沿って)西へ移動してアメリカ(サンサルヴァドル島)に達した。コロンブスは,そこがヨーロッパ人にまだ知られていない陸地とはわからず,アジアと考えた。当時の地図では,アジアを広く考えていて,アジアの経度を実際よりも東に広げていたからである。すなわち,コロンブスは,スペインから大西洋を渡ってアジア(ジパング)に達するのに4300kmの航海ですむと考えていた。これは実際の距離の3分の1程度だった。

コロンブスの航路

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/36/Columbus_routes.png

(ウィキペディアより)

 

バスコ・ダ・ガマ(ポルトガルの航海家)

ポルトガル国王の名を受け,1498年喜望峰をまわりインドのカルカッタに上陸,インド航路を開く。

出発時147名のうち帰国したのは55名だけであった。ほとんどが壊血病で亡くなった。

バスコ・ダ・ガマと第一回航海航路

https://www.kokugakuintochigi.ac.jp/tandai/topics/old_topics/02_gakusei/200527_opencampus/syougaku/basukodagama.html

(国学院栃木短期大学)

 

フェルディナンド・マゼラン 

1519年今日のマゼラン海峡を発見,その後,太平洋に出てフィリピンに至る。1521427日マゼランは先住民に殺される。残った一行は1522年セビリアの港に着く。地球を一周,地球球形説が証明された。

マゼランはフィリピンで死亡し,最終的にスペインに帰還できたのは,出発時270人のうち,18人だけで,その多くの命は壊血病で失われた。

マゼランの航路

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/36/Magellan-Map-En.png

(ウィキペディア)

 

フランシス・ドレーク

1577年,スペイン船からの金銀略奪を目的としてドレークは英国を出港。

南緯57°まで流され,現在のドレーク海峡に入る。南アメリカが南極につながっていないことがはっきりした。

 

オランダ(東インド会社)

1605年,ジャワ島を出発したウィリアム・ヤンスゾーンがオーストラリアを発見した。

1616年,ウィレム・スハウテンヤコブ・ル・メールがドレーク海峡を通って太平洋に出た。

1642年,アベル・タスマンによりタスマニアとニュージーランドが発見。

 

フランス (東インド会社)

1739年,ブーベ・ド・ロジェは孤島ブーベ島を発見。

1772年,ケルゲレン・トレマレックは現在のケルゲレン諸島を発見。

 

中国鄭和(ていわ)艦隊

1368年明建国。

1402年永楽帝が皇帝となる。壮大な造船計画。

鄭和提督,海洋貿易を進める。7回の航海(1405-1433)

その船団は東南アジア,インド,セイロン島からアラビア半島,アフリカにまで航海した。

当時,ヴェネツィアの最大の船でも全長45m」,幅6m,積荷50トン。それに比べ,旗艦宝船は長さ140m,幅58m,積荷2000トンとはるかに大きかった。

船内でもやしを栽培し,壊血病を防いだ。コメは精米せず脚気にはならなかった。持ち込んだ犬と桶で飼われたカエルを肉として食べた。

鄭和:鄭和像,艦隊の進路,旗艦宝船の模型

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E5%92%8C

(ウィキペディア)

鄭和艦隊とバスコ・ダ・ガマの艦隊の比較

https://yamatake19.exblog.jp/15918465/

(山武の世界史より)

 

メンジーズによると鄭和艦隊の行動はもっと広かった。

(メンジーズ,松本訳(2003)石沢2020から引用)

6回航海

1421年 外国人を招いて紫禁城を公開した。これら各国の使節を故国へ送り届けるため,4船団が航海に出る。

1船団は送り届けて帰国。残り3船団はさらに航海を続ける。アフリカ東岸に寄りながら南下し喜望峰を回った。

その後,大西洋を北上し,カリブ海に至る。ここで分かれる。1船団は北アメリカに到達,2船団は南アメリカを南下する。

マゼラン海峡を通り南極半島先端に達し,サウスシェトランド島に上陸した。

その後東に進み,ケルゲレン諸島を経由してオーストラリア西岸に達する。

14231022日に中国に帰還した。

これが事実なら,これまでの歴史を大きく塗り替えることになる。

 

サウスシェトランド諸島:位置図,写真

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E8%AB%B8%E5%B3%B6

(ウィキペディア)

 

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3.クックの航海

ジェームズ・クック James Cook

17281027-1779214

クック像

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/76/Captainjamescookportrait.jpg

ウィキペディア,クックの肖像画 海軍博物館所蔵

 

クックの航海

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4a/Cook_Three_Voyages_59.png

赤は第1回航海,緑は第2回航海,青は第3回航海をあらわす。青の点線はクック死後の航海ルートである。(ウィキペディア)

 

1回航海

1768年 王立協会と海軍が南太平洋に共同調査隊を派遣。目的は未知の南方大陸の発見,天体観測,抗壊血病剤テスト。背景にはフランスが勢力をのばし太平洋の小さな島々を自国領としていた。そこでそれを食い止めることを大きな目的であった。

エンデバー号

30m×9m,94人が乗船した。

176963日金星の太陽面通過を観測。

ニュージーランドとオーストラリアを経由。

ジャワ島バタビアにてマラリアと赤痢発生。38人死亡。

17716月イギリスに帰還。壊血病による死者はゼロ。

 

2回航海

未知の南方大陸にけりをつけるため探検隊派遣。

あわせて貿易と植民地化をもくろむ。

2隻の船,レゾリューション号とアドベンチャー号

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/af/Hodges%2C_Resolution_and_Adventure_in_Matavai_Bay.jpg

17738月タヒチに停泊する両船(ウィキペディア)

 

1772713日 プリスマを出港

レゾリューション号に90人乗船,指揮はクック。

アドベンチャー号に69人乗船,指揮はトバイアス・フルノ―。世界周航の経験がある。

クロノメーターを携行し経度決定を簡便にした。

ケープタウン通過後,1773117日南極圏を通過した。

ケルゲレン島付近で両船ははぐれ,3ヶ月後にニュージーランドで再開。

タヒチ出港後再び離れ離れ。

 

アドベンチャー号は漏れひどく,帰国決断。

マオリ人に船員10人虐殺され食べられる。

1774714日帰国。

レゾリューション号

1月末,71°10S106°54W.

これ以上の南下はあきらめる。

ホーン岬を通って1775730日帰国。

113000qの航海で死亡者は,4人。

 

3回航海

ベーリング海峡での北西航路探索。

 

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4.壊血病と脚気

長期航海の障壁

堅硬な船の建造がまず大きな課題,それが克服され長期航海が可能になると積込んだ食糧は腐り虫が湧きネズミが群がるようになる。さらに,野菜や果物が不足すると壊血病が蔓延した。

 

4.1壊血病

症状 歯茎が腫れて出血,無気力,倦怠感,その後衰弱して死に至る。

15世紀(コロンブスの航海)から19世紀の蒸気船の発達までに200万の船員が死んだ。20世紀初頭の英国の南極遠征でも壊血病に苦しんだ。

クックの航海では,柑橘類を重視し,壊血病を克服した。

王立協会はこの内容を軽視した。その後,アメリカ独立戦争では,軍艦内で壊血病が多発し,「レモンとオレンジが船員の命を救う」考えが取り入れられた。

1932年,アルベルト・セント・ジェルジがビタミンCを分離した。

参考マゼラン最初の世界一周航海(ピガフェッタ「最初の世界周航」長南 実 訳,岩波文庫)

(抜粋) 15201128日水曜日に,あの海峡(かいきょう)(現在のマゼラン海峡)からぬけでて太平洋のまっただ中へ突入(とつにゅう)した。3ヶ月と20日のあいだ新鮮な食べものはなにひとつ口にしなかった。

(中略)

しかしながらあらゆる苦労(くろう)にもまして,最悪(さいあく)事態(じたい)というのはこうである。何人かの隊員の歯茎(はぐき)()まで()れてきて‐それは上歯(うえは)下歯(したは)もおなじことだが‐,どうしても物を食べることができなくなり,この病気(壊血病(かいけつびょう))で死ぬ者が生じたのである。19人の隊員とあの巨人(パタゴニアから乗る)とヴェルツィン(ブラジル)の国のインディオも死んでしまった。さらに25人から30人ほどの隊員も,ある者は(あし)だとかその他のところが病気になり,こうして健康な者はわずかしかいなくなった。

 

4.2もう一つのビタミン欠乏症-脚気

症状 全身の倦怠感,食欲不振,手足のしびれ,むくみなどの症状が出る。重症化すると心臓機能が低下して,最悪の場合は心不全により死に至る。

経過 明治から大正にかけて,結核とともに日本人の国民病と言われた。白米を主食とする地域と階層にみられた。田舎で暮らす人や都会でも貧しい人は罹らなかった。明治になって軍隊で多発。当時の食事は,主食が白米6合,副食に具がないみそ汁と漬物だけ。

脚気に悩んでいた軍隊であったが,海軍軍医総監 高木兼寛の進言で麦飯をとりいれ,海軍の脚気は大幅に減った。しかしながら,陸軍は強硬に反対し,多くの兵士は脚気に苦しんだ。日露戦争では脚気で死んだ人が28000人に達した。

1910年,鈴木梅太郎が脚気に有効な結晶としてビタミンB1(当時はアベリ酸,オリザリン)を発表した。ただし,脚気がビタミンB1欠乏によることが認知されるには少々時間がかかった。

 

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