地質図 Geologic maps

 

鉱物資源の種類や量は,地質とおおいに関係する。そこで資源や地質を知るために地質図の作成がどこの国でも進められている。地質図は資源調査のほか,道路やダムを作るというインフラ整備でも利用される。活断層の情報から,地震災害予測にも利用される。今回は,地質調査の歴史と地質図の読み方と書き方を説明する。

 

目次

その1

1 地質学黎明期(れいめいき) The dawn of geology → リンク

2 日本の地質図  Geologic maps in Japan → リンク

3 地質図を作る,読む How to make a geologic map → リンク

付録 あおぞら文庫や動画の紹介

その2

4 スミスと英国地質図 → ンク

付録 英国の地質図

5 ライマンと北海道の地質図 → リンク

付録 ライマンの弟子 西山正吾

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要点

18世紀後半に英国とドイツで近代的地質学が発展し,地質図を作るようになる

・ライマンやナウマンの指導で,明治になって日本でも地質図作成が始まる

ITの進展で地質図が身近なものになる

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自習の能率をあげるため,本文中の問いをまとめる。

問1: 日本の地質学導入期に米国やドイツから来日した地質専門家の外国人は誰か。

(回答は2まとめの下に記す) → リンク

問2: 水平な地表で石炭が見つかった。傾斜は45度,傾斜方向100m進んだところでは 地下何mに石炭が出ると予想できるか?

(回答例は3のまとめの下) → リンク

問3: ある山中で地層を観察したら,砂岩層と泥岩層の境界が垂直だった。この地質境界は地表でどのように表現されるか?

(回答例は3まとめの下) → リンク

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1 地質学黎明期 The dawn of geology

産業革命後に実学として地質学が発展していくことを振り返る。初期は,英国(イングランド)やドイツで地質学が発展した。その中でもイングランドのスミスは土木工事技師として働きながら本格的な地質図を作成した。

 

地質図とは,表土の下にどのような岩石や地層がどのように分布しているかを示した地図。この地質図がどのようにして作成されるようなったか,その背景や経緯を記す。

18世紀後半からドイツと英国で地質学が急速に発展した。これは産業革命で資源を確保するという背景による。

1762 フライベルグ鉱山専門学校創立。

1775 ウエルナーの水成論。花崗岩と玄武岩も水成とする。

1778, 95 ハットン,花崗岩と玄武岩はマグマが固結してできた(火成論)。

1807 ロンドン地質学会創立。

1835 英国地質調査所設立。

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ウィリアム・スミス(1769323 - 1839828)

炭鉱の鉱脈調査,運河の建設,農地の改良といった仕事を手がけながら,様々な地層やそこに埋まっている化石を観察した。そこから地層累重(るいじゅう)の法則と示準化石による年代決定法(地層同定の法則)を編み出した。

・地層累重(るいじゅう)の法則:古い地層から順により新しい地層が重なる。

・地層同定の法則:地層には時代を決める特有の化石が含まれることがあり,離れた地域間で同じ地層を識別できる。この時代を決める化石を示準化石という。

1815年,46歳のスミスは,仕事を通じて観察してきた事象を集大成してイギリス本土全域の多色刷りの本格的な地質図を完成させた。

スミスの詳細を4節に記してある。 → 4へ

 

スミスの英国地質図(ウィキペディアより)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/98/Geological_map_Britain_William_Smith_1815.jpg地層累重の法則(産総研HP,絵で見る地球科学より)

https://gbank.gsj.jp/geowords/picture/illust/law_of_superposition.html

示準化石の代表的例(ウィキペディアより)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1f/Index_fossils.gif

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1のまとめ

近代的な地質学はドイツや英国で産業革命とともに発展した。ことにウィリアム・スミスは英国内を調査していく中で地層の基本原則を見出し,それを応用して本格的地質図を作成した。

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2.日本の地質図

日本の地質学黎明期(れいめいき)には,米国やドイツの専門家が地質学や鉱山開発を指導した。それに伴い地質図の作成が進められる。1895年に40万分の1予察地質図が完備した。精度をあげた20万分の1地質図は1919年に完備した。

その間に日本の地質総括ともいうべき100万分の1地質図が1899年に完成した。さらに精度の良い7万5千分の1地質図作成の調査が1917年より始まり,戦後になり5万分の1縮尺に切り替わり,全国の完備をめざしている。

地質図は,資源調査,土木事業,防災など多方面で利用されている。あらたな要請もある。例えば,1995年に阪神淡路大震災がおこり,活断層の重要性が認識されるようになり,全国の活断層分布図を作るに至った。

ITの進展で地質図の電子化が進められ,紙媒体からデジタル情報でPCやスマートフォンから手軽に地質図を見ることができるようになった。

2.1 外国人専門家の活躍

パンペリー(1837.9.8-1923.8.10)

パンペリーは,米国出身,ドイツで地質学を修めた。

外国からの技術者の多くは,明治政府になってから来日しているが,パンペリーは維新前の江戸幕府に招かれた。

パンペリーは,アリゾナで銀鉱山の調査中にインディアンに襲われる。命からがら逃れメキシコを経てカリフォルニアにたどり着いた。日本(幕府)が地質の専門家を捜していることを知り,パンペリーはカリフォルニアから日本へ向かった。

 

・1860年からアリゾナの銀鉱山調査,

・1862年からW.P.Blakeとともに来日し,北海道南部を調査。

・その後,中国とモンゴルを巡り,1866年に調査報告を残す。

・ハーバード大学教授とミシガン・ミズーリ州地質調査所を経て米国地質調査所に勤める。五大湖地方の石炭・鉄・銅鉱床の開発に貢献。

・1903-05年,中央アジア探検隊を指揮,トルクメニスタンで遺跡発掘を行う。

 

パンペリーの日本での行動

1862221日 文久二年一月廿三日  Blake , Pumpelly横浜着

・同年59  四月十一日 Blake, Pumpelly, Rice(米箱館事務官)箱館着

・地質巡検:1回目と2回目は調査,3回目は採鉱技術実地指導,その間に鉱師学校開校

・同年12月4日  十月十四日 Blake, Pumpelly:契約終了

 

パンペリーらの北海道調査ルート(つれづれ日米歴史散歩より)

http://www.japanusencounters.net/sub_pumpellyroute.html#map

 

茅沼炭田(かやぬまたんでん) 

パンペリーが精査した炭田で, 北海道西部,積丹(しゃこたん)半島南西側の日本海に面した地域にある。

・1856 茅沼炭田を地元民が発見。

・1862 パンペリーらが良質の石炭であることを確認。

・開発・休山を繰り返し1969年閉山。

出炭量

 開坑以来昭和6年までの総量 1,046,718トン

 昭和7年 80,474トン,昭和8年 120,610トン,昭和9年 125,610トン

 昭和10年 132,705トン,昭和11年 139,910トン,昭和12年 157,970トン

  (齋藤林次,1950,北海道茅沼炭田茅沼地区調査,地質調査所月報,1(3))

 戦後の生産量(単位1000トン)

 1950年度 931955年度 1241960年度 1671965年度 25

                            (ウィキペディアより)

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ライマンとゴッドフレー

米国からライマンが明治政府の招きで来日した。当時”えぞ”と呼ばれていた北海道で地質調査を行い,北海道全土の地質図(200万分の1)を編集し出版した。これが日本で本格的な最初の地質図。ライマンのもとで学んだ弟子たちはその後の日本の地質調査や鉱山開発に貢献した。

鉱山技師で来たゴッドフレーは,自分が調査したところとライマンの地質図から日本全体の地質図を作成した。

ライマン 来曼

・明治5年(1872)11月来日

・明治6・7・8年 (夏季)北海道の地質調査 

・明治9年(1876)「日本蝦夷地質要略之図」200万分の1

・明治10年(1877) A General Report on the Geology of Yesso

・明治11年 「北海道地質総論」(開拓使)

・明治9年から日本各地の油田調査

・明治14年春 帰国

 

ライマンの調査記を5節に詳述してある。 → 5へ

ライマン (1877) 200万分の1「日本蝦夷地質要略之図」(日本地質学会より)

http://www.geosociety.jp/uploads/fckeditor/geophoto_img/2007.12_1.jpg

 

ゴッドフレー J. G. H. Godfrey

・明治4年(1871)〜明治10年(1877),日本滞在

・鉱山師長として日本の主要な炭田や鉱産地を調査

・帰国直後に,ライマンの北海道の地質図を基準に日本列島の地質図を作成

ゴッドフレーによる日本の地質図の区分

・新期および古期沖積層 New & Old Alluvium

・登志別層 Toshibetu

・新期火山岩 New Volcanic

・幌向層 Horonui  石狩・常磐・筑豊などの含炭層

・古期火山岩 Old Volcanic 佐渡・生野などの金属胚胎火山岩

・変成岩 Metamorphic

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ナウマン

ライマンより少し後にドイツからナウマンが来日し,東京大学の地質学教室を立ち上げ,あわせて地質調査所設立に関わった。日本の地質を明らかにするため,全国の地質図作成計画を提案した。

ナウマン

・ドイツの地質学者。

・1875年(明治8年) - 1885年(明治18年),明治政府に招聘され,日本に滞在。東京帝国大学(現:東京大学)地質学教室の初代教授。

・地質調査所(現:産総研 地質調査総合センター)の設立に関わり,調査責任者として日本列島の地質調査に従事した。

 

ナウマン(ウィキペディアより)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/32/Heinrich_Edmund_Naumann.jpg

 

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2.2 わが国における地質図作成事業

日本に地質学が導入され,日本人の技術者も育った。

明治の前半,日本の地質全貌を明らかにするため,北海道を除く日本全土の40万分の1縮尺の予察地質図が作られた。

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日本に地質学が導入,地質図作成が本格的に行われるようになる。

1877 東京大学理学部地質学採鉱学科設置1880 地質学科独立

1878 第1回万国地質学会議(パリ)

1878 内務省地質課

1881 40万分の1地質図調査開始,北海道以外を5つに分け,ともかく日本全土の地質概略把握をめざす

1882 日本地質調査所設立

1885 地質調査所20万分の1地質図刊行開始(1919年完成)

 

40万分の1地質図 大日本帝国予察地質図中部(明治23年,1890)

https://gbank.gsj.jp/ld/app/darc/viewer.html#rarebook/70000849_GeoMap_40_geo_yosatsu_chubu    

地図を拡大すると,当時の地名や鉄道整備状況なども見ることができる。

 

問1 日本の地質学導入期に米国やドイツから来日した地質専門家の外国人は誰か。

(回答は2まとめの下に記す)

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地質図作成事業の進展 

1895 40万分の1予察地質図完備

1899 地質調査所100万分の1「大日本帝国地質図」刊行,当時の日本の地質の総括

 

1917 7万5千分の1地質図調査開始

1919 20万分の1地質図完備

1923 関東大震災 M7.9

1945 終戦

1949 7.5万分の1地質図を5万分の1縮尺に変更

1954 新20万分の1地質図編集開始

 

最初の5万分の1地質図「三河大野」(1952)

https://www.gsj.jp/data/50KGM/JPG/GSJ_MAP_G050_11047_1952_200dpi.jpg

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地質調査事業の変遷

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2.3 さまざまな目的の地質図

--- 活断層図,火山地質図,地元密着の地質図,シームレス地質図

 

1995 阪神・淡路大震災 M7.3

活断層とは,断層のうち近年の地質時代(数十万年間)に繰り返しずれた形跡があり,今後もずれる可能性があるもの。活断層の発生確率は,平均活動間隔,そのばらつきの程度,最新の活動時期から計算される。1995年の兵庫県南部地震を起こした六甲断層系の野島(のじま)断層の発生確率は30年以内で8%だった。(知恵蔵)

 

活断層図:活断層図は,インフラ整備の順番などの施策に利用される。

日本の活断層分布図(原子力百科事典ATOMICAより)

https://atomica.jaea.go.jp/data/fig/fig_pict_02-02-01-01-08.html

 

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火山地域の地質図

火山地域では,火山の歴史がわかるよう,噴火が起きた時の災害軽減に役立つ地質図が用意されている。

桜島の地質図(産総研より)

https://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/sakurajima/map/volcmap01.html

 

地域密着の地質図

地元での活用のため,教育的配慮をした地質図が編集されることがある。

岐阜県地質図(岐阜大学)

http://chigaku.ed.gifu-u.ac.jp/chigakuhp/html/kyo/chisitsu/gifunochigaku/geologicmap/index.html

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デジタル化

シームレス地質図 

・日本列島の地質図を継ぎ目なくデジタル編集したもの。

・精度は20万分の1縮尺。

・この地図は次の地質図ナビで参照できる。

 

ナビで地質が身近に地質図ナビ

https://gbank.gsj.jp/geonavi/

・これによりスマートフォンで地質情報を知ることができる。

・現在位置の地質がわかる。例えば旅行先で周辺の地質を容易に知ることができる。

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2のまとめ

地質図作成は日本の近代化とともに始まり,時代の変遷とともに精度をあげてきた。

1995年に阪神淡路大震災がおこり,活断層が注目され,活断層の調査が集中的に行われた。この例のように,基本図の5万分の1縮尺の地質図整備とは別に,特定の目的をもった地質図の作成も行われている。

統一的に編集したシームレス地質図から日本全国を同一の精度と凡例で地質をながめることができるようになった。加えてITの進展で地質図の電子化が進められ地質図がさらに身近なものとなった。

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問1回答例

ライマン,ナウマンなど

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3 地質図を作る How to make a geologic map

実際に地質図を作る作業はどんなものか,そして地質図を読むにはどんな知識が必要か。練習問題を通して説明する。

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3.1 野外調査から地質図

地質図を作成するには,多くの調査・研究の過程が必要。特に,野外での現地調査 (地質調査) が不可欠。ただ,多くの人にとって地質調査はなじみがない。

・地質調査とは:岩石の種類,地層の傾き,鉱化作用などを調べるこれらの野外調査結果を地図に記す。

・室内解析:持ち帰った試料を室内で解析。岩石を薄くして顕微鏡観察に,化石から時代を決め,環境を推定する。 

 

野外調査図(産総研より)

https://www.gsj.jp/geology/geomap/process-field/gongenyama1.html

 

この野外調査の記録から地質図を作成する。その際,岩石の露出がないところは論理的に推定して地質図にする。

 

調査図から地質図を作成(産総研より)

https://www.gsj.jp/geology/geomap/process-field/gongenyama3.html

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3.2 地質図を読む

地質図を読むには,地質断面を理解することが必要。地質断面とは,大地を切断して見たら地下で地層がどう傾いているかなどを示す図である。地質図を読みとるのに,地形図作成と同様に三角関数の知識が必要となる。

 

問2:

水平な地表で石炭が見つかった。傾斜は45度,傾斜方向100m進んだところでは 地下何mに石炭が出ると予想できるか?

回答例は3のまとめの下

問3:

ある山中で地層を観察したら,砂岩層と泥岩層の境界が垂直だった。この地質境界は地表でどのように表現されるか?

回答例は3まとめの下

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3.3 地下を探る

ここまで説明してきた地質図は,基本的に地表を調査して作る。地下の資源を掘り当てるあるいは地盤の状態を調べるためにはボーリングが行われる。

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地下を知る,ボーリング 

・油田や温泉を目的とした掘削,地質やそれに含まれるものの調査を目的とした「ボーリング調査」が広く行われている。

・学術調査の目的で,掘削船による深海底(深海掘削計画,ODP)や高緯度地帯の氷や凍土を対象としたボーリングなども行われている。

 

ボーリングにより得られたコア(岩芯)

  https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/b/b4/Boring_core.jpg

地下がどんな地質からなるかがわかる(ウィキペディアより)

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国土地盤情報 KuniJiban (国土交通省)

公共事業等で行われたボーリングデータを国土交通省が公開。

特に港湾,国道や高速道路の工事に伴うボーリングデータを収録している。

地域を絞っていくとボーリングサイトにたどりつく。

ホーム | 国土地盤情報検索サイト「KuniJiban (pwri.go.jp)

 

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3.4 大学周辺の地質

大学周辺から犬山城にかけての地質を地質図で見てみる。犬山城の土台が中生代のチャートからなること,名古屋経済大学は中生代の砂岩の上にあることがわかる。

 

犬山付近の地質図

 

犬山付近の地質を総括すると次のようになる。

新生代

第四紀 完新世 H:沖積層

更新世 Q3:段丘堆積物

新第三紀 鮮新世 N3cg:れき層

中新世 N1ss:砂岩,泥岩

中生代

白亜紀 Kgr:花こう岩

ジュラ紀 Jms:泥岩,Jss:砂岩,Jch:チャート

注:地層となったのがジュラ紀ということで,チャートはその形成が三畳紀までさかのぼる

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3のまとめ

地質図作成は,野外調査にもとづき,同じ地質をつないでいく。実際には観察できるところが少ないので地質構造から論理的に解釈してつないでいく。

 

問2 回答例

tan 45 = 1なので,100m x tan 45 = 100m

問3 回答例

垂直な地質境界は,地形の形にかかわりなく,地表で直線状となる。

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付録 参考資料

青空文庫:木暮理太郎「山の今昔」 初出は昭和11年(1936年)

少々長い作品です。そこで時間がない方は,最後の章「登山の変遷 ロ維新後」だけでも見てください。横山又次郎,原田豊吉,ナウマンが地質調査で南アルプスを歩いていることが記されています。日本の地質学黎明期を支えた人々です。

https://www.aozora.gr.jp/cards/001373/files/57035_57573.html

 

動画:地質技師という仕事(JOGMEC) 328

https://www.youtube.com/watch?v=NLGPzQZbcf4&t=30s

動画:三井物産,西オーストラリアでの鉄鉱石開発(155)

https://www.mitsui.com/jp/ja/innovation/business/iron_ore/index.html

動画:海峡(1982年東宝 予告編) 235秒 

https://www.youtube.com/watch?v=TGXM-4uy3Y0

青函トンネル工事に携わる地質技術者

 

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遠隔授業の場合の課題

3.4で載せた大学付近から犬山城にかけた地質図を見て,次の場所の地質(地質時代と岩石)を記す。

(1)本宮山(ほんぐうさん)の地質。

()名古屋経済大学のあたりの地質。

()もしあれば,質問や感想を書いてください。

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その2 その1で紹介したスミスとライマンについてやや詳しく記した

4 スミスと地質図

英国の地質学の父 ウィリアム・スミス

地球科学史や地質図の章ですでにふれたが,ウィリアム・スミスは,地質学の諸原理を発表し,また英国の色刷りの本格的な地質図を刊行した。時代が産業革命の頃であるという背景をふまえながら,彼の生涯をかいつまんで紹介する。

主な参考文献

サイモン・ウィンチェスター,野中邦子訳 2004:世界を変えた地図 ウィリアム・スミスと地質学の誕生。早川書房,pp. 372.

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略歴

ウィリアム・スミス(William Smith, 1769323 - 1839828)は,イギリスの土木技師・地質学者である。イギリス本土の地質図を初めて作ったことなどで知られている。

肖像

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/66/William_Smith.g.jpg

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スミス少年期

1769 オックスフォードシャーのチャーチルという農村の鍛冶屋で,長男として生まれた。

8歳で父親を失い,母親のアン・ウィリアムが再婚するまでの二年間,弟二人と妹の4人が伯父の家で育てられた。

学校の成績はかなり良かったが,家が貧しいため,大学へ進学できなかった。

学校を出るころには,農村の若者にしては珍しくあちこちを旅してまわっていた。

 

オックスフォードシャー州

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC

地図

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/Oxfordshire_UK_locator_map_2010.svg

(ウィキペディアより)

 

少年スミスとポンド石

オックスフォードシャ―一帯でははかりで1ポンド分のバターをはかるとき,近所の石切場で見つかる丸石を使っていた。

それは円形や五角形で底の部分はやや平らではかりに載せても転がらない。

形はさまざまなのにどれもだいたい22オンス(623 g)でこの重さを「ロング・ポンド」とよばれた。

この石にスミスは心を奪われた。

海岸に生息するウニ(クリペウス・プロティ)そのものが石になっている。

一番近い海岸からでも150km,高度にして100mへだたった草原で見つかるのか,と疑問をもった。

その当時,化石の説明はなく,形をなした石であった。

 

ウニの一つ,タコノマクラ ポンド石の形(模様)に近い

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3f/Clypeaster_japonicus_-_Osaka_Museum_of_Natural_History_-_DSC07832.JPG

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当時の背景

宗教観

聖書の考えがまだ強かった。

神が天地を創造 BC 40041023()AM 900

化石はフィギュアドストーン形をなした石,神の御業(みわざ)ははかりがたいとした。

ただし,聖書にしばられない科学観も台頭してきた。

産業革命

スミスが生まれた1769年は産業革命を象徴する発明があいついだ。

1769 ジェームス・ワット,蒸気機関の特許取得

1769 ジョサイア・ウェッジウッド,大規模な陶器製造工場をオープン

1769 リチャード・アークライト,水力紡績機を発明

この当時,鉄や石炭の生産量は20年ごとに倍増,そして鉄や石炭,それに関連する製品を運ぶための運河建設ブームが生まれかけていた。

 

ジェームス・ワット

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/15/Watt_James_von_Breda.jpg

ワットの蒸気機関

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9e/Maquina_vapor_Watt_ETSIIM.jpg

リチャード・アークライト

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ea/Arkwright_Richard_1790.jpg

水力紡績機(模型)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/04/Waterframe.jpg

 

運河ブーム

1759 ブリッジウォーター公爵,70kmの水路を完成,

ランカシャーのワーズリー鉱山の石炭を直接マンチェスターまで運ぶ。

運河をつかうことで石炭価格が半分まで下げる。

これが契機となり,英国中で運河ブームがはじまる。特に炭鉱所有者の間で運河熱が広がった。

 

英国運河時代(1760年代-1830年代)の運河(ウィキペディアより)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2d/Bridgewater_Canal%2C_Runcorn_1.jpg

英国の運河(ウィキペディアより)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/90/Map_of_canals_of_the_United_Kingdom.png

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スミス,測量を学ぶ

道路が整備され,領地は測量されて造園し,河川が改良され,そして土地を分配して耕作するエンクロージャーを行うため,測量の需要が多くなる。

スミスは本をなかなか買えない中,「測量法」を手に入れる。そしてスミスは測量を実地で学ぶ機会を得る。

1787 測量士エドワード・ウェッブの助手として働き始め,短期間で仕事を覚えた。この時は18歳だった。チャーチルの伯父の家を出て,ウェッブと仕事し,一緒に旅行もした。

1788 19歳の時,チャーチル出身の元インド総督ウォーレン・ヘースティングズの領地(耕作用貸付地)の測量をウェッブから任され,正確な測量で成功を収めた。

 

ウォーレン・ヘースティングズ(Warren Hastings, 1732.12.6-1818.8.22)

英領インドの初代総督(1772-1786)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/ff/Warren_Hastings_greyscale.jpg

(ウィキペディアより)

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地層の重なりの原理にきづく

エドワード・ウェッブからまわってきた仕事でサマセットに向かう。

1791 サマセット着

貴族の領地を測量して査定する仕事であった。

ハイ・リトルトン石炭会社で測量,設計,排水が仕事の中身である。

この地域の地層は現在の地質区分で表すと,コールメージャーズの上部,中部,下部からなる。石炭紀上部ウェストファリア統である。

スミスはサマセット炭鉱運河会社に雇われる。鉱山測量士およびサマセット石炭運河の主任測量士として働く。石炭の試錐孔をたびたび調査する機会があった。

スミスはこのメアーンズ・ピットの立坑全てに降りた。地層の上部ではゆるく傾斜しているだけだが,下の方では岩石は押しつぶされ歪んでいることを観察する。

 

英国,サマセット州

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/67/Somerset_UK_locator_map_2010.svg

ダンカートン・アンド・ラドストック運河のルート決定のための測量をうけおう。6ヶ月の仕事の後,他の地域の運河ルートがどう決められているかを視察する。2ヶ月の旅行でイングランドとウェールズの1500kmを走破する。

スミスが担当した運河でここでの地質の観察が地層の規則性や地質図のヒントとなる。

 

サマセット石炭運河 

https://en.wikipedia.org/wiki/Somerset_Coal_Canal

https://en.wikipedia.org/wiki/Somerset_Coal_Canal#/media/File:Somerset_Coal_Canal_Map.png

スミスは,地層の重なりの規則性を徐々に気づく。炭鉱での地層の重なりが広範な地域の地質にも合致するかを確認する機会となる。

そして次のように考えた。

・ここの炭鉱で観察した地層の重なりはほかの場所にも応用できるのではないか。

・さらには,地質の予測が可能な地図を作成できるのではないか。

・断面図をかき,図表にするのは,容易に考えられるが,地層が水平に(地表に)どう表れるかを予測する地図をどう表現するか,厄介であった。

1798 (地下の)地質の予測が可能な地図のヒントを郡農業白書で得る。それにはバース近郊の土壌と植生が図示してある。

・森,草原,牧草地を色分けしてある。

・赤土や石炭脈の露頭が図示。

・そこから地下にどんな地層があるかを推定させる。

スミスはこの表現を参考に地質図を作ろうと考える。自分がよく知っているバースとその周辺に適用してみる。

まずバースの地図を入手した。スミスが観察して記録してきたノートの情報を地図に書き写す。化石,地層,地層の走向傾斜である。

1799 サマセットのバース周辺の地層分布を記した世界最初の地質図を作成,

 

サマセットのバースの位置

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/27/Somerset_UK_location_map.svg

バース付近の地質(英国地質調査所デジタル地質図から抜き出す)

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英国地質図へ向けて

1799.6.11 スミスとスミスの理解者,タウンゼンドとリチャードソンでスミスの考えをまとめる。

「バース近郊の地層の重なりとそこに含まれる化石,1799年以前に調査検証したもの」

23種の地層をリストアップする。それは,チョーク(白亜),・・・,石炭層である。

この理解者2人は司祭であるが,地層の重なりや化石についてその価値を見出していた。司祭にもかかわらず,このような当時の宗教界には受け入れない考えをもつに至っていた。

前後するが,1799.6.5

スミスはサマセット炭鉱運河を解雇される。年収450ポンドの仕事が打ち切り。

以後,フルタイムの仕事につかなかった(つけなかった)

排水技師,石切場評価,堤防強度調査,銅鉱山調査,バースの枯れた温泉調査,等々で成果をあげる。現在で言えば,「スミス総合土木地質エンジニアリング」である。

18061812年,悪夢のような期間である。ロンドンに移ってから家の家賃はかさみ,定職のなかったスミスはしばしば困窮した。さらに,スミスの地層の重なりの成果やバースの地質図が無断で使われたりした。現在でいえば著作権侵害である。

1807年に新設の地質学会には入会の誘いはなかった。意図的な排除であった。

1807年 クーム・ダウンの古い石切場を買い上質なバース・ストーンを切り出す計画をたてる。

1814年 石材切り出し始まるが,ワーテルローの戦い後,イギリスは戦後不況に陥り,スミスの事業は打ち切りになった。

1813年頃,ロンドン屈指の地図製作者が前触れもなく地質図出版の協力を申し出てきた。

1815(46)には,彼がこれまでの仕事を通じて観察してきたことの集大成であるイギリス本土全域(イングランド,ウェールズ及びスコットランドの一部)の多色刷りの地質図を完成できた。縮尺:5マイルを1インチ,すなわち,132000である。横1m85cm,縦2m60cmになる。

1815.3 リヴァプール首相が閲覧

1815.5 学術協会から送金

1815.8 公に出版,400部印刷

題は,「イングランドとウェールズ,およびスコットランドの一部の地層の描写図」

炭鉱と鉱山,かつて海の氾濫によって生じた沼地と沼沢低地,および土壌の種類を地層の変化に応じて図示し,わかりやすい名称を添えた。様々な地層区分の分布が,手作業で色分けされていた。これは当時としては画期的なことである。

 

スミスの英国地質図

1815 スミスが作成したイングランドとウェールズの着色地質図(ウィキペディアより)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/98/Geological_map_Britain_William_Smith_1815.jpg

1819 地質学会が同様の地質図を印刷。

スミスの友人たちが地質学会の剽窃を責めたところ次のような釈明があった。

「二つの地質図は多くの点で同一だが,一方が他方を写したのでなく,双方とも正確だったということ。同じ主題に取り組めば結果が似たようになるのは自然である」

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困窮や屈辱

1807年に発足したばかりのロンドン地質学協会は下層階級の出身であるスミスの入会を認めなかったばかりか,彼の集めたデータを盗用して別の地質図を作る者までいた。地質図は完成したが,石材事業の破産,住居の借金,親戚の少年養育などでスミスはますます困窮する。

1818年 借金返済のため,長年かけて集めた標本2657点を大英博物館に売り渡した。それでも依然として,請求書の未払い,遅れている借金返済,未収の税金があった。

1819.6.11 ロンドンのキングズベンチ債務者監獄に収監

1819.8.31 早朝釈放,50歳だった。ここに至り,スミスはロンドンをさろうと決心した。そして,ヨークシャーの小さな町ノーサラトンに引きこもった。

 

ヨークシャー

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC

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地質学の父と称賛

1820年代後半になるとようやくスミスは正当に評価されるようになった。

1828年,ウォラストンが亡くなる2週間前に地質学会に寄付。その基金で賞を設ける。

ウォラストンはパラジウムを発見するなど化学で業績がある。ウォラストナイト(珪灰石)は彼の名にちなむ。

 

ウィリアム・ハイド・ウォラストン (1766-1828)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/06/William_Hyde_Wollaston.jpg

(ウィキペディアより)

 

1831年にウォラストン・メダルの第1回受賞者はウィリアム・スミスとなる。「英国地質学の父」と称えられるようになった。

1832年に正式にメダルを受ける。政府も動き,年100ポンドの終身年金をスミスはうける。

アイルランドからの顕彰

1837年英国学術協会の会合がアイルランドのダブリントリニティカレッジで行われた。ダブリントリニティカレッジの学長と教授会の決定でスミスに名誉博士号が贈られる。

「英国地質学の父」が英国の大学でなくアイルランドの最高学府から栄誉を授かったことになる。

 

トリニティカレッジ正面 (1837) ウィキペディアより

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b9/DUBLIN%281837%29_p041_TRINITY_COLLEGE.jpg

 

最晩年

1838年,英国国会の場であるウェストミンスター寺院を新築するにあたり,用いる石材を決定する委員会が説立された。スミスはそのメンバーとなる。

同年8-9月 石切り場を視察し,報告書のリストには100以上の石切場があげられている。

1839年,スミスはバーミンガムでの英国学術協会の会合のためにバーミンガムへ出かけた。その帰りに肺炎を患い,ノーサンプトンの友人の家で亡くなった。

 

付録:英国の地質概略

英国とアイルランドの地質概略図

https://www.bgs.ac.uk/discovering-geology/maps-and-resources/maps/colour-in-geology-map/

 

英国の地質図(英国地質調査所,BGS)

https://geologyviewer.bgs.ac.uk/?_ga=2.244911301.1303376399.1685675010-358381296.1685675010

開いたときに地形図だけなら「Bedrock geology」を選び色刷り地質図を表示できる。任意の地質単元(ポリゴン)からその地質の説明が出る。

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5.ライマンと北海道の地質図

ベンジャミン・スミス・ライマン(来曼)

Benjamin Smith Lyman

参考文献

今井 功(1963)地質調査事業の先覚者たち(4) 炭田・油田開発の貢献者-ライマン- 地質ニュース11129-35

副見恭子(1994)ライマン雑記(10) 地質ニュース47645-53

副見恭子(1995)ライマン雑記(11) 地質ニュース48656-66

副見恭子(1999)ライマン雑記(17) 地質ニュース54154-60

 

まえがき

日本の地質学黎明期には何人かの外国人専門家が招へいされた。代表的な3人をあげる。

・パンペリー(1837-1923)米国出身,江戸幕府の招へい。幕末に蝦夷地の地質調査と鉱山調査を行う。文久2(1862)から文久3(1863),日本に滞在。

・ライマン(1835-1920)米国出身,北海道の地質調査と日本全国の石油調査を行う。日本で最初の本格的地質図となる蝦夷地200万分の1地質図を作成している。多くの弟子を育てた。明治5(1872)来日,9年間日本に滞在。

・ナウマン(1854-1927)ドイツ出身,東京大学設立当時の最初の地質学教授,地質調査所設立にも貢献。明治8(1875)来日,10年間日本に滞在。

 

ここではライマンを紹介する。日本で最初の本格的な地質図を作成し,地質調査事業の先覚者の一人として,また炭田・油田開発の貢献者として評価されている。その地質図出版の日付にちなみ,「日本の地質の日,59日」が定められている。

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5.1 来日前,地質技術者として,特に石炭や石油の調査を行う

ライマンの先祖は1654年にマサチューセッツ州西部ノーサンプトンに最初の開拓者としてやってきてその地に定着し栄えた。

19世紀には,ライマン家は人々に畏敬の念でみられた名門であった。

 

マサチューセッツ州(ウィキペディアより)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f5/Massachusetts_in_United_States.svg

マサチューセッツ州内のノーサンプトン(ウィキペディアより)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b1/Northampton_ma_highlight.png

赤色がノーサンプトン

 

1835年にライマンはマサチューセッツ州のノーサンプトンで出生。父親は判事,母親は名家の娘であった。

ノーサンプトンの初等学校からフィリッピ・エキスター学校をへてハーバード大学に入学。1855年,ライマンは20歳で大学を卒業している。

卒業後,中学校の先生をしていたが,あきたらず,アメリカ鉄鉱協会の会長だった叔父の助手となり,1857年に南部に旅行し測量調査に従事する。

翌年,ジェームス・ホールの指導でアイオワ州の地質調査に従事する。ライマンはホールの学究態度に感銘をうけ,地質学の基礎知識を習得しようと考える。

 

ジェームス・ホール James Hall (ウィキペディアより)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/16/James_Hall_paleantologist.jpg

 

1859年にパリの鉱山学校で学び,さらに1861年にドイツのフライベルクにあるフライベルク鉱山学校(現在のフライベルク工科大学)に留学し,鉱山学を学んだ。

 

1866年頃のフライベルグ鉱山学校 (ウィキペディア)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2e/Bergakademie_in_Freiberg_in_1866.jpg

18629月,南北戦争のため故郷ノーサンプトンに帰る。軍隊に入らず,ペンシルベニア州地質調査所にいた叔父レスラーを手伝い各地の地質測量調査に従事する。石炭の埋蔵量を知るための地下等深線図を考案する。

このころは世界各地の油田が本格的に開発されだした。

1870年,英国政府の委嘱を受け,インド北西部パンジャブ地方の石油調査に1年従事する。

1871年,インドの調査後,米国帰国の途中に日本に立ち寄っている。

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5.2 日本における調査,北海道全土の地質調査や日本の石油調査

1872(明治5)1217日 サンフランシスコ発(汽船アラスカ丸)

1873(明治6)117日 日本着,翌18日江戸到着,江戸ホテルへ。

ライマン来日について明治5年と信じるむきがあるが,太陽暦採用で明治523日が明治6年元旦になったことの混乱らしい(副見,1990,地質ニュース427)

118日,ホテル到着後,ただちに黒田清隆開拓使長官あて到着の手紙を書く。北海道庁のトーマス・アンチセルの後任として,3年間契約で開拓使雇となる。

 

1873-1879年の北海道開拓使本庁舎 北海道開拓の村で外観再現(ウィキペディア)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d3/KaitakushiSapporoHonchosha1873-restoration.jpg

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5. 2.1 北海道の調査 明治6(1873) 

418日 出発,21日函館着。

その後,1110日まで,石狩,後志(しりべし),胆振(いぶり)各地方の石炭・石油・硫黄・砂金を調査した。日中は山野を歩き,夕方は川岸にテントをはり露営。雨天の日には,テント内で助手(学生)たちに数学を教えるなどした。

合間にケプロンとともに移民開拓地を視察し,さらに榎本武揚や荒井郁之助などと交際した。

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参考:

ホーレス・ケプロン(1804-1885)

アメリカ合衆国政府で農務局長となった。1871(明治3 - 4),渡米していた黒田清隆に懇願され,職を辞し,同年7月訪日。開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問となる。1875(明治8)5月帰国。この間に北海道の道路建設,鉱業,工業,農業,水産業など,開拓のほぼ全領域に渡っている。

ウィキペディア:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%B3

 

榎本武揚 (1836-1908)

伊能忠敬の弟子であった幕臣榎本武規の次男として生まれる。長崎海軍伝習所で学んだ後,オランダへ留学。帰国後,幕府海軍の指揮官,戊辰戦争で旧幕府軍を率いる。箱館戦争で漢軍に降伏,投獄後釈放され明治政府に使える。北海道で資源調査,ロシア公使などを経て,内閣制度開始後は外務大臣や農商務大臣などを歴任した。東京地学協会を創設するなど地質分野でも貢献した。

ウィキペディア

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E6%8F%9A

 

荒井郁之助(1836-1909)

幕府御家人(後に関東郡代付の代官),荒井清兵衛の長男。幕府出仕後,軍艦総連,測量高等数学を学ぶ。榎本武揚とともに箱館戦争に身を投じる。榎本同様に降伏,投獄を経て釈放,明治政府に仕える。北海道で三角測量を行う。その後,内務省地理局で全国大三角測量を計画。1890(明治23)には初代中央気象台長に就任する。その間の1878(明治11)内務省地理局地質課が設置され,その課長となる。測量課長を本務とした併任である。地質課は1882年設立の地質調査所の前身である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E4%BA%95%E9%83%81%E4%B9%8B%E5%8A%A9

(ウィキペディア)

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ライマンの北海道南部地域調査地は次の通り。

マンローと学生7名をひきつれる

学生:茅潤(茅沼)炭山,ユーラップ鉛山,幌内炭山,岩雄登硫黄山,山越内および鷲の木石油地,泉沢石油地を測量調査

ライマン:積丹半島,定山渓,有珠,登別,樽前,幌別,登刺別駒岳,恵山,古武井を巡回。

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5. 2.2 北海道の調査 明治7年(1874)

519日 汽船ニューヨークで横浜発,20日函館着

26日 札幌へ向かうのであるが,まず1日かけ森まで行く

27日 森から連絡船しんび丸でモロラン(室蘭)7時間半かけて向かう。

62日 開拓農地視察などを行い苫小牧着,千歳から新道を通る。

4日 札幌着

 

ダイアグラム

自動的に生成された説明

1874年の調査旅行ルート  副見(19941995)より転載

 

札幌-神居古潭(6/17-7/10)

617日 ボート2そう,カヌー11そうで豊平川から大遠征の途につく。

十勝川で食料補給が行われるまで75日間を見込んで食料を用意する。

石狩川に入り江別河口でキャンプ。

18日 7そうのカヌーに3人が分譲して夕張川へ。

19日 石炭れきを見つけ興奮。

21日 江別キャンプへもどる。

その後も石狩川を上るが,途中でいくつかの支流を調査

74-7日 石炭を求め奥地へ

空知炭層の将来性を認める。炭田を開き鉄道を敷き,札幌経由で小樽へ輸送する考えをもつ。

710日 神居古潭着

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%B1%85%E5%8F%A4%E6%BD%AD#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kamuikotan_Asahikawa_18-05-22.jpg

神居古潭(ウィキペディアより)

 

神居古潭-愛別(7/11-7/15)

711日神居古潭の岩石を調べる。例えば大理石や蛇紋岩に着目する。

12日一部を送り返し,上川盆地横断準備を整える。

総勢56名,カヌー(巨木を掘りぬいたもの)11そうで繰り出す。

流れは衰える。石狩岳が見えてくる。

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8b/%E7%9F%B3%E7%8B%A9%E3%81%AE%E8%82%A9%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E7%9F%B3%E7%8B%A9%E5%B2%B3%EF%BC%92.jpg

石狩岳(ウィキペディアより)

 

15日愛別着。

 

愛別-ホロカイシカリ(7/16-7/23)

716日 愛別発

17日 奔流激しくなる。十勝岳が見える。

19日 アイヌからこの先陸路をとることが提案。

21日 前進はじめる。

ライマンは方角をすぐに読めるようコンパスを双眼鏡用の皮ケースにおさめ胸にぶらさげた。歩数計の代用に,18個の小石をポケットに入れた。小石は2種あり,一つを百歩ごと,もう一つは千歩ごとにもう一方のポケットに移し歩数を計る。峡谷では便利である。

行く手に大岩壁がそびえる。幕営後アイヌ全体の協力で夕刻までに頑丈な丸木橋が仕上がる。

22日 前日仕上がった丸木橋を渡ると行く手に早瀬・絶壁・滝・巨岩・激流が待ち構え,よじ登りと徒渉のくり返しで筆舌に尽くしがたい。キャンプ地に向かい,疲れ果てたライマンは大男のアイヌにおんぶされ川を渡る。

23日 大岩壁群(現在の層雲峡)を脱出。

 

層雲峡,大函(ウィキペディアより)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Oobako%28hokkaido%29.jpg

層雲峡,銀河の滝(ウィキペディアより)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/59/Ginganotaki.jpg

この一帯を抜けるのにライマン一行は難儀した。

 

ホロカイシカリ

24日 平地が増え,渡渉が楽になる。

25日 岩山へ向かっているとき,アイヌが額に大きな石があたり深手を負う。ライマンが救急処置を行う。旅が終わるまで,風呂敷を頭に巻いていた。

開拓峠を越える。

草や灌木につかまり斜面をくだる。谷間で野営。

26日 2時間を炊事と朝食にかける。少し進み,午後は休養とする。

27日 断崖や支流は減り,たびたび平地を歩く。休憩時にはマス釣りを行う者ある。

28日 アイヌの住宅がある。まだ十勝川でなく音更(おとふけ)川。

29日 距離が進む。

30日 なかなか集落(札内)に出ない。

31日 ライマンはキャンプ地にとどまる。

81日 20人のアイヌと通訳が別れる。彼らは来た道を通り帰郷する。負傷したアイヌは笑みをたたえ別れのあいさつをする。

82日 一気に川を下り大津到着。ライマンは本陣に泊まる。

4日 残るアイヌがコタンへ帰る。

 

十勝川河口(ウィキペディアより)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/df/Tokachi_Riv_1.JPG

 

道東,道北

85日 大津から広尾に向かう。途中砂金産地に寄る。

6日 広尾本陣入り。同地に滞在する。

11日 広尾発,大津着。

12日 大津発,白糠着。

13日 白糠発釧路着,炭質頁岩,砂岩,石炭塊,遺棄された炭坑を調査。

14日 春採炭鉱へ。

15日 石炭露頭や炭鉱を観察。厚岸着。

 

釧路炭田:https://www.city.kushiro.lg.jp/www/common/003hp/jidai/index1-1.htm

釧路市資料。白糠や春採の炭山についてふれている。

釧路地方で採炭(=石炭を掘ること)が始まったのは1857年で,その目的は函館に来る外国船に燃料として提供するためだった。場所は現在の釧路市益浦や白糠町石炭岬で,特に白糠では7年間にわたり石炭を採掘した。

さらに川湯硫黄山で採りだした硫黄を運ぶために釧路鉄道が硫黄山と標茶間に敷かれた。その鉄道を動かし硫黄を精錬するための石炭が必要だった。また精錬された硫黄を運ぶために汽船を動かす燃料としても石炭が必要だった。これには春採の石炭が使われた。

 

16日 休養。厚岸本陣の話を傾聴した。

17日 浜中へ前進。

18日 雨で停滞。

19日 落石(おちいし)を目指す。

20日 根室着。国後島と択捉島を訪れたいが,船の日程とあわず渡航断念。

21日 根室知事の訪問を受け,めのうを贈られる。ライマンの体調がすぐれない。

27日 調査再開。根室半島東端納沙布(のさっぷ)岬へ。

28日 暴風雨で停滞。

29日 根室発。風連湖岸に到着。

30日 別海着。

31日 標津(しべつ)着。知床の情報収集。

91日 内陸の道をとる。チライワタラ着。

2日 チライワタラ発,標津温泉などを調査。若老着。

3日 雨で停滞。

4日 雨の中,斜里着。ここからは舟で移動。

5日 砂州に乗り上げるなどして,難儀するが,ポロトマリまで進み,番屋泊。

6日 ウトロを過ぎ岩尾別着。

7日 風があり舟の出発遅れ,その間に地質調査。午後出立,カムイベツ着。

8日 徒歩で硫黄山へ向かう。硫黄山山頂への途中,硫黄流出の穴を見出し驚嘆。硫黄・岩石を収集。キャンプ地へもどる。

 

アトサヌプリ(別名:硫黄山)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%88%E3%82%B5%E3%83%8C%E3%83%97%E3%83%AA

山麓の噴気孔

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e8/Mount_Io_Teshikaga_Hokkaido_Japan01s3.jpg

(ウィキペディアより)

 

9日 斜里へ陸路でもどることする。難儀して岩尾別着。

10日 予定を変更して遠音別(おんねべつ)へ向かい,同地泊。

11日 途中の番屋から馬に乗り斜里着。

12日 斜里発網走着。

13日 能取(のとろ)湖などを経て,常呂へ。

14日 悪天候で停滞。

15日 常呂発,サロマ湖を経て湧別着。

16日 湧別発,紋別村へ。本陣は豪勢。

17日 雨。内業,蝦夷地図作成中,色刷り全島地質図を着想する。

18-23日 沢木,チカブトムシ,枝幸(えさし),斜内,猿払(さるふつ)と移動,克明な地質調査記録を残す。

24日 猿払から宗谷に向かうが,荒天で杖苫内泊。

25日 宗谷村着。ライマンは樺太の情報や利尻島の岩石の情報を収集。

26日 野寒布(のしゃっぷ)岬をまわるなどして抜海(ばっかい)着。礼文島と利尻島が間近に見える。

 

のしゃっぷ岬

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%AF%92%E5%B8%83%E5%B2%AC

音別町から見た利尻島

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/34/Rishiri_Island.jpg

(ウィキペディアより)

 

天塩から小樽を経て函館へ

27日 天塩へと進む。天塩川上流の石炭の情報を得る。

28日 四苦八苦して風連別着。その年の2月の地震の爪痕がある。

29日 苫前着。大地震が2月に起こっている。数日暴風雨。停滞。

苫前町

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%AB%E5%89%8D%E7%94%BA

(ウィキペディアより)

 

105日 苫前発。へらしべつ着。

6日 へらしべつ川を遡上。野営。

7日 石炭層あらわれる。留萌炭山間近で幕営。

8日 放棄されている炭鉱などを調査。復路につく。

 

留萌炭田:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%99%E8%90%8C%E7%82%AD%E7%94%B0

(ウィキペディア)

 

9日 さらに川を下る。留萌着。

10日 増毛着。札幌を発ってから初めての学校。蝦夷で最高のホテルを有す。

 

増毛町:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E6%AF%9B%E7%94%BA

(ウィキペディア)

 

11日 山道をたどり浜増毛着。

12日 暴風雨で停滞。

13日 徒歩で出発。山道。強行軍で夜に厚田着。

14日 人足が夜通し歩いて早朝に到着。全員揃い午後に厚田を発つ。石狩村着,新しい建物が林立。

15日 小樽へ向かう。月初めの暴風雨で道が流されており遠回りして小樽内到着。

16日 余市本陣着,翌日岩内で落ち合うことを言い残し,丘陵や峡谷を踏査して,るべしべ着。

17日 るべしべを離れ,山道をたどり岩内着。

18日 雷電山,歌棄(うたすつ)を経て黒松内本陣着。

19日 悪路と山道をたどり昼に長万部着,長めの休憩をとる。午後,遊楽部を経て山越内着。

20日 馬を次々に変えて,落部,森,七飯を経て函館着。

1024日 函館出帆。

1027日 帰京。

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5. 2.3 北海道の調査 明治8(1875)

6月から10月の約100日間の調査。主に茅沼と空知の各炭田の精査を行った。

学生たちは,美唄,奈井江など各地で良炭層を発見し,石狩炭田開発の基礎をかためる。地質調査のほかに,開拓使の仕事として幌内鉄道測量にも従事した。

 

明治9(1876)総まとめの地質図

ライマンは北海道地質調査の総まとめとして「日本蝦夷地質要略之図」をあらわす。

 

200万分の1「日本蝦夷地質要略之図」(日本地質学会より)

http://www.geosociety.jp/uploads/fckeditor/geophoto_img/2007.12_1.jpg

 

ライマンの北海道岩相区分

これは200万分の1北海道地質図で,総合的な地質図としては日本最初のものである。

この地質図の説明書にあたるものが,次のように翌年と翌々年に刊行される。

明治10(1877) A General Report on the Geology of Yesso

明治11(1878) 開拓使 北海道地質総論

 

ライマンの地質区分(今井,1963)

ライマンの層序

現在(1963年当時)の区分に対応させたもの

新沈積層

古沈積層

新火山石層

登志別層

古火山石層

幌向層

鴨居古潭石層

沖積層,火山灰層

段丘堆積層

第四紀火山岩類

油田第三系

第三紀火山岩類(緑色凝灰岩)

夾炭古第三系と白亜系

神居古潭変成岩類および古期岩類

 

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5. 2.4 全国油田地質調査

明治811月で開拓使との契約のきれたライマンは,内務省勧業寮での油田調査事業を担当することとなる。

明治9(1876)6月から9月 信越地域を中心に油田調査

助手たちをいくつかの班に編成し,調査地域を分担させ,ライマンは広域の予察を行う。

調査の合間に「北海道地質総論」をまとめた。

 

ダイアグラム

自動的に生成された説明

ライマンの油田調査経路(今井,1963から転載)

 

明治10(1877),勧業寮は廃止となり,油田調査は工部省工作局に移管された。

桑田知明・西山正吾が秋田県下の油田,杉浦譲三と坂市太郎が静岡の相良油田,ほかは3班に分かれ新潟の油田を調査。

ライマンは安達仁造をともない5月に相良油田,7月から12月まで近畿以東の予察旅行を行う。

明治11(1878),助手たちの大部分は新潟の油田調査,ライマンは6月から翌年の2月まで関東以西の予察旅行を行う。

明治12(1879),工部省は開発(採油技術)に力を入れるようになった。ライマンは7月に工部省を去る。その後もライマンは自費で日本にとどまり,調査結果をまとめる。

明治13(1880),報告書類と新潟県の油田地質図は完成。

明治14(1881)の春,ライマンは日本を去る。助手たちは四散し,炭田の発見や地質調査所図幅調査等で貢献する。

 

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5. 3 アメリカ帰国後,ペンシルバニア州地質調査所で奉職

1882(明治15),ペンシルバニア州地質調査所で無煙炭調査に従事する。

工部省を退官して渡米した賀田貞一と日本での油田調査のまとめを行い,「日本油田之地質及び地形図」が完成する。ライマンが私費で200部を印刷する。

賀田はライマンと無煙炭調査に従事し,明治16年に帰国。その後,ライマンは,桑田知明を米国へ招へいし,炭田調査に従事した。桑田は米国内や英国の炭鉱を視察して明治19(1886)に帰国する。

1887(明治20),ライマンはペンシルバニア州地質調査所次長になる。

1895(明治28),ライマンは60歳となりペンシルバニア州地質調査所を辞す。

1906(明治39),ライマン,炭鉱調査のため,フィリピンへ向かう。

その途上に日本に立ちよる。弟子たちが各地から集まり,30年の昔を偲ぶ。

1920(大正9)830日,ライマン逝去,享年86歳。

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付録:ライマンの弟子の例 西山正吾

多くの弟子がいたが,地質調査所の初期の地質図幅にかかわった西山正吾をとりあげる。

参考文献 副見恭子(1999)ライマン雑記(17) 地質ニュース54154-60

1852(嘉永5)上田にて出生。

明治5(1872)開拓使仮学校入学,ライマンの第二回北海道地質調査に加わる。その後越後石油調査に従事する。

明治13(1880)ライマンの帰国があり,西山は内務省地質課に入る。ここは2年後地質調査所となる。その間に各地を地質調査し,報文を残す。

報文の代表例

地質調査所20万分の1地質図「伊豆」(18841885)を担当。

20万分の1地質図幅「伊豆」および同説明書

https://gbank.gsj.jp/ld/app/darc/#70000678

 

明治20(1887)北海道庁に移り全道地質鉱産調査に加わる。

明治23(1890)北海道庁を非職。

明治25(1892)農商務省鉱山監督署。

明治32(1899)三井鉱山会社入社。

この間,内外の地質鉱床を調査,中でも三井北海道炭田の開発の基礎をきづいたことは特筆。

大正9(1920)退職

昭和5(1930)

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