地球を測る Researching the Earth (2024年8月31日版)
1
地球の形 The shape of the Earth
2
地質学の近代化(聖書の教えにとらわれない) Modernization of
Geology
3
グローバルテクトニクスの導入 The Earth
based Global Tectonics
4
日本の地震,特に南海トラフ地震
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・紀元前のエジプトでは地球の大きさを測っていた
・18世紀にドイツや英国で地質学が発展した
・ウェゲナーの大陸移動説は,プレートテクトニクスに発展し,地球上の現象を説明
・南海トラフでは約100〜200年の間隔で大地震が発生
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自習の効率のため,本文中の問いをまとめる。
問い1
シエネ(アスワン)では,夏至には井戸の中まで太陽に光が入り,影ができない。アレクサンドリアでは太陽の光は斜めだった。南中高度(太陽が真南にあるときの角度)の差は7.2°,アレクサンドリアとシエネ(アスワン)の南北の距離は925km。これから円周を求める。
(回答は,1のまとめに) → リンク
問い2
コペルニクスなどが教会から迫害をうける原因となった地球が太陽のまわりをまわるという考えは何と呼ばれるか。
(回答例は,1のまとめの後) → リンク
問い3
1995年の阪神・淡路大震災で注目を浴びるようになった地質現象とは何か?
(回答例は3まとめの後) → リンク
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1
地球の形
古代には,地球は平らな円盤またはテーブルであり,空はそれをおおう天井またはドームで山脈や柱がこの空を支えていると考えられていた。人々の活動範囲が広がるとこのような地球観では具合が悪くなった。
地球球形論
古代ギリシャではポリスが発展し,政治的社会的自由を享受できる人々ののびやかな精神によって古典文化が栄えた。地球観ものびのびとしていた。
ピタゴラス(BC560-480)
数の原理が万有の基礎と考え,立体で球が完全な図形と考える。地球もほかの惑星ともども球形をなしている。
アリストテレス(BC382-322)
次の観察から地球が球形であるとした。
・月食において地球の影が曲がっている。
・北あるいは南に場所を移すと星の高度が変わる。
前4世紀後半,マケドニア王アレクサンドロス大王(在位BC336-BC323)は広大な帝国をつくった。死後統一国家はエジプト・シリア・マケドニアの3つに分かれた。エジプトでは自然科学が発達し,アレクサンドリアは学問の中心であった。
エラトステネス(BC275-194)
アレクサンドリアの司書。地球の大きさを測定した。その方法は現代に通じるもの。求めた値は現在得ている値より1割少し長め,当時の測量法などを考慮すればすばらしいもの。
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エラトステネスはどのようにして地球の円周を求めたか?
・アレクサンドリアとシエネ(アスワン)での太陽の南中高度の違いから円周を求めた。
・まず,次の地図(ウィキペディア)からアレクサンドリア(Alexandria)とアスワン(Aswan)がどこか確認する。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2e/AlexandriaMap1.jpg
現在のエジプトの北東部,地図の上(北)にアレクサンドリア(Alexandria),下(南)にアスワン(Aswan)がある。
・シエネ(アスワン)では,夏至には井戸の中まで太陽に光が入り,影ができない。アレクサンドリアでは太陽の光は斜めだった。
・南中高度(太陽が真南にあるときの角度)の差は7.2°,アレクサンドリアとシエネ(アスワン)の南北の距離は925km。
・これから円周を求める。
問1
2点を通るように地球を輪切りにすると円になるので一周は360°,そのうちの7.2°が925km,これからエラトステネスが求めた地球の円周はいくらとなるか。上の図を参考にするとよい。
回答をこの節のまとめの下に記す。
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中世ヨーロッパ
中世ヨーロッパでは教会の力が強く,地球は聖書の教えにもとづき説明された。違った考えを唱えると宗教裁判で迫害をうけ,火あぶりの刑にあうこともあった。
・3世紀から16世紀の中世では聖書に基づく地球観が支配する。
・ヨーロッパ中世の宗教的自然観(天地創造説)は,ノアの洪水説が支配的。例えば,化石は大洪水の遺物とみる。
・地球が中心で太陽や月,そのほかの星は地球のまわりをまわっている。(天動説)
天動説
惑星が他の星(恒星)と異なる運動をする。これを説明するためにいろいろの説があった。基本は地球が中心。
・同点天球説:古代ギリシャのエウドクトス(BC406-355)は,地球の中心として太陽の天球,惑星の天球,恒星の天球を考え説明した。
・周転円説:プトレマイオス(100-170)は,「太陽は地球のまわりを一様に回転する。惑星は地球を中心とする導円の上に中心をもつ周転円の上を運動する。」とした。プトレマイオスの考えが中世ヨーロッパへ伝わった。
地動説
・コペルニクス(1473-1521)は,地球が太陽のまわりを公転すると考えると,惑星の動きを統一的に説明できることに気づいた。----「地動説」の誕生。
コペルニクスが考えた天体の動きの図(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/95/Copernican_heliocentrism_theory_diagram.svg
図のSolが太陽,Tellurusが地球
・ギリシャ時代に地動説もとなえられたが,中世にはプトレマイオスの天動説が引き継がれた。
BC3世紀初め,ギリシャ人のアリスタルコスは太陽を中心に地球が自転しつつ回転していることを観測から推測した。地動説である。当時のギリシャではアリストテレスによる地球中心の哲学が主流で認められなかった。AC2世紀,プトレマイオスは天動説を強く主張する。神中心の世界観と一致し絶対の宇宙観となる。アリスタルコスの考えは忘れ去られ,コペルニクスもその存在を知らなかったという。(世界史の窓より)
・ガリレオ(1564-1642)は望遠鏡を使い月のクレーターなどを観察。地動説を支持したので宗教裁判にかけられる。
ガリレオの宗教裁判(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bd/Galileo_before_the_Holy_Office.jpg
・コペルニクスやガリレオは教会を敵にまわさないようにしたので,迫害を受けながらも死刑にならなかった。教会に異を唱え,地動説の考えを強く主張したブルノ(1548-1600)は火あぶりの刑にあう。
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中世ヨーロッパでの科学の動きと宗教裁判をまとめる。
・中世の神学者 聖書の天地創造6日間を人類の歴史全体を示す6000年間と主張。
・1517 ルター,「95カ条の論題」
----- 宗教改革
・1543 コペルニクス,太陽中心の地動説を提案。これは教会の教えと異なる。
・1600 ブルノ,地動説を積極的に支持し,火あぶりの刑にあう。
・1609 ガリレオ,望遠鏡による月の観察,翌年木星の衛星を発見・
・1650年,ダブリンのアッシャー大司教は,ユダヤ暦や聖書を検討,神は紀元前4004年10月22日土曜日の夕方にこの天地を創造したと結論する。
・1681 ブルネット,ノアの洪水で現在の地球ができたとした。化石は洪水遺物。
・1696年,ウィストン,彗星が凝集して固体となり地球がつくられた。ノアの洪水は,新しい彗星と遭遇した時に水がもたらされたからと説明。
・1726 ベリンジャー,同僚による偽造化石とは知らずに,自分の観察から化石の出現は,聖書の教えにしたがっていると説明した。
・1765 フライベルグに鉱山専門学校設立
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参考:コペルニクスやガリレオの主張や発見と宗教裁判のことが読み物になっている
名経大Webで得られるE-Book
理科のおさらい‐天文‐
29地球の公転と自転
・1543 コペルニクスが,地動説,地球が太陽の周りをまわっているととなえる。
・ガリレオ・ガリレイが地動説を支持する。
・1600年代初頭,ガリレオはキリスト教の裁判で有罪,自宅軟禁となる。神が天地を創造したのでこの考えは神を冒瀆(ぼうとく)するものである。
・ガリレオは,望遠鏡を使い,月を観察しクレーターがあること,木星に衛星がまわっていることを発見した。
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問2
コペルニクスなどが教会から迫害をうける原因となった地球が太陽のまわりをまわるという考えは何と呼ばれるか。
(回答例はこの節のまとめの後に記す)
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1のまとめ
紀元前のギリシャ時代には地球の円周を求めることがすでに行われていた。ギリシャの文化は伝わらず,中世ヨーロッパでは聖書に基づく地球観が支配し,聖書と異なる考えを唱えると迫害を受けた。
問1回答例
地球を輪切りすれば球で360°,そのうちの7.2°が925km,そこで,地球の円周(全周)は,925km x 360/7.2=46000 km
問2回答例
地動説
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2
地質学の近代化 Modernization of
Geology
産業革命(さんぎょうかくめい)が起きたころから地質学は大きく進んだ。産業革命では蒸気機関(じょうききかん)が使われ,そのため石炭の確保が必要だった。運輸のために運河の工事が行われ地質の知識が利用された。このため地質学の有用性が認められた。
ドイツでは
ドイツのフライベルクは鉱山や鉱業の中心地として栄えていた。鉱山業近代化を目的として鉱山学校が当地に設立。
・1762 フライベルク鉱山専門学校創立。当時の欧州において,先進的科学研究施設であり技術教育機関であった。
・1775 その学校の校長でもあったウエルナーが水成論を展開。花こう岩と玄武岩も水成としている。難点がある説であったが,時代背景を考えると,それまでの聖書の束縛を離れたことで評価できる。
英国では
1700年中ごろ,スコットランドエジンバラのハットンは自然科学や哲学に広い興味を持っていた。地質学については野外調査などをして,ウエルナーと異なる考えに至った。
・ハットンは斉一説を提唱。地球上の自然は,昔も今も同じ自然の法則に従って動いている。現在の自然現象を観察して岩石や地層に記録された情報を読み取れば地球の過去が類推できるという考え。
・1778, 95 ハットン,花こう岩と玄武岩はマグマが固結してできた(火成論)と主張。ウエルナーの水成論と異なる考えである。
・1807 ロンドン地質学会創立。世界で最初の地質学会。地質学がアカデミックな学問ともなる。
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上記のウエルナーの水成論とハットンの火成論を整理する。
18世紀後半に地質学が体系化してくると,岩石の成因が問題となった。
・水成論者 地球上の岩石は,砂岩でも花こう岩でも玄武岩でも,海の水から沈殿した水成岩(堆積岩)と考えた。
・火成論者 地球上には海底や湖底に堆積してできた水成岩もたくさんあるが,例えば玄武岩や花こう岩は,高温の融解(ゆうかい)した物質(マグマ)が冷却・固結してできた火成岩と考えた。
(都城・久城, 岩石学V, 共立全書 ; Coleman et al. 2016)
補足 哲学者,文学者として有名なドイツのゲーテは地質学にも興味があった。日本語訳で次のような本がある。
ゲーテ 「地質学論集 鉱物篇」 木村直司(編訳)ちくま学芸文庫,2010
この著書でゲーテは次のように述べている。
・花こう岩は太古の時代から注目すべき岩石であり,われわれの時代にさらに注目のあたいするものとなった。
・水は基本量塊を溶解状態に保つのに作用していた。この一般的溶解状態から花こう岩がまず沈殿し,結晶となった。
・花こう岩が成り立っているところは一過性で水を濁らせていた。
このようにゲーテは水成論者だった。
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水成論と火成論の論争は,徐々に火成論が優勢になっていった。
ハットンは,スコットランド高地で花こう岩の脈が他の岩石を貫いているところを見つけ,火成論の一つの根拠とした。花こう岩のまわりにある岩石は,花こう岩の熱によって変化している(変成作用の観念)ことも指摘した。
岩脈の例
黒っぽい堆積岩を白い花こう岩質のマグマが貫いている。(この露頭は,ハットンが観察したものではない)
(ウィキペディアの岩脈より)
ハットンはそのほか多くの地質学の観察を行った。観察を通して,不整合の考えに至った。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0d/Hutton_Unconformity%2C_Jedburgh.jpg
ハットンが見つけた不整合(ウィキペディアより)
不整合:地層が侵食を受け,その後新しい地層が堆積,両者の間には時間間隙がある。
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地質図
イングランドのスミスは,地図に地質の性質を加えた地質図を考案した。
1815-19
スミスが作成したイングランドとウェールズの着色地質図(ウィキペディアより)。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/98/Geological_map_Britain_William_Smith_1815.jpg
世界で最初の本格的広域地質図である。地質図は資源調査や土木工事に威力を発揮する。
ウィリアム・スミス(William Smith,1769-1839 )
・背景として,イングランドでは,産業革命により道路建設,運河掘削,また,土地の測量など,測量・土木が職業として成り立つようになっていた。
・スミスは,炭鉱の鉱脈調査,石炭を運ぶための運河建設,農地の改良を手がけていた。その間に,スミスは,地層や化石を観察して,地層累重の法則と化石による年代決定法(地層同定の法則)を編み出した。
・1815年(46歳)には,それまでに観察してきたことの集大成としてイギリス本土全域(イングランド,ウェールズ及びスコットランドの一部)の地質図を完成させた。
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日本では
ヨーロッパや英国から遅れながらも,日本でも地図作りや地質図作りが始まった。
鎖国をしていた江戸時代に,伊能忠敬は日本全土の地図を作製した。
・伊能忠敬(1745-1818)は江戸時代に日本全土を測量して地図を作製した。
・伊能の死後,弟子たちにより,1821年に大日本沿海輿地全図が完成した。
伊能の地図の例(北海道),ウィキペディアより
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7d/EnkaiYochiZenzuHokkaido.jpg
明治になって,日本の近代化を進める中,米国のライマンやドイツのナウマンがお雇い外国人として日本の地質学に貢献した。炭田,油田,金属鉱山の開発が急速に進んだ。
ライマン(Benjamin Smith Lyman, 1835-1920,米国)
日本で本格的地質図を作成した。
・(1876, 1877) 200万分の1「日本蝦夷地質要略之図(General Report of the Geology of Yesso)を出版した。
ライマンの蝦夷地質図(日本地質学会より)
http://www.geosociety.jp/uploads/fckeditor/geophoto_img/2007.12_1.jpg
ナウマン(Heinrich
Edmund Naumann, 1854−1927,ドイツ)
地質調査所開設に関わり,地質図幅事業を開始した。
・1875年(明治8年)−1885年(明治18年)日本に滞在。
・東京帝国大学地質学教室初代教授として日本列島の地質調査に従事。その間に地質調査所設立を提言する。
ナウマン(写真,ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/32/Heinrich_Edmund_Naumann.jpg
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地質調査所が整備され,日本国内の地質調査が進み,日本人の手による地質図が出版されるようになった。
初期の地質調査事業
・1877 東京大学理学部地質学採鉱学科設置,1880 地質学科独立
・1878 第1回万国地質学会議(パリ)
・1878 内務省地質課
・1881 40万分の1地質図調査開始
(当初20万分の1地質図整備が提言されたが,時間がかかるとして,全国を5地域にわけた40万分の1予察地質図を短期間に作ることとなった)
・1882 日本地質調査所設立
・1885 地質調査所:20万分の1地質図刊行開始(1919年完成)
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日本ではしばしば地震が起こり大きな被害が発生する。日本特有の地質現象といってよい。
・1891 濃尾地震,M8.0,根尾谷断層出現,死者7000名余
濃尾地震発生当時の根尾谷断層,地面が大きく食い違う(ウィキペディアより)
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その後も地質図整備が進展した。
・1895 40万分の1地質図完備,日本の地質概要を知ることができるようになった
・1899 地質調査所:100万分の1「日本地質図」刊行,当時の日本の地質の総括というべきもの。この地質図は1900年のパリ万博に出展。
大日本帝国地質図 100万分の1
引用先:産総研(2018),近代日本の鉱工業発展を支えた地質図たち
当時は千島列島全島が日本の領土であったことがわかる。
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地球の年齢について
話は前後するが,地球の歴史について,いかに聖書の考えから脱却し,そして放射壊変を利用した年代測定を行うようになったか振り返る。
創世記をどう乗り越えたか
(参考文献 松井孝典 2015,宇宙誌。講談社学術文庫,pp.524。)
・中世の神学者 聖書の天地創造6日間を人類の歴史全体を示す6000年間と主張。
1日目 神は天と地をつくられた(つまり,宇宙と地球を最初に創造した)。暗闇がある中,神は光をつくり,昼と夜ができられた。
2日目 神は空(天)をつくられた。
3日目 神は大地を作り,海が生まれ,地に植物をはえさせられた。
4日目 神は太陽と月と星をつくられた。
5日目 神は魚と鳥をつくられた。
6日目 神は獣と家畜をつくり,神に似せた人をつくられた。
7日目 神はお休みになった。
ヒエロニムス・ボスの『悦楽の園』の扉,両翼を閉じると現れる外面に描かれた天地創造時の地球。おそらく天地創造三日目の大地,海,植物の創造時で,まだ人間は誕生していない。(ウィキペディアより)
・1650年,ダブリンのアッシャー大司教は,ユダヤ暦や聖書を検討,神は紀元前4004年10月22日土曜日の夕方にこの天地を創造したと結論する。
・1696年,ウィストン,彗星が凝集して固体となり地球がつくられた。ノアの洪水は,新しい彗星と遭遇した時に水がもたらされたからと説明。
・キュビエ,山に海の生物(化石)があることを,聖書のノアの方舟,天変地異で説明した。
主は人々の堕落を見て,これを洪水で滅ぼすと「主と共に歩んだ正しい人」であったノア(当時500〜600歳)に告げ,ノアに方舟の建設を命じた。
ノアは方舟を完成させると,妻と,三人の息子とそれぞれの妻,そしてすべての動物のつがいを方舟に乗せた[4]。洪水は40日40夜続き,地上に生きていたものを滅ぼしつくした。水は150日の間,地上で勢いを失わなかった。
ノアは箱舟から出て良いとの指示を受け,家族と動物たちと共に方舟を出た。
『方舟を出た後のノアによる感謝の祈り』(1901年までの間に制作,ドメニコ・モレッリ)
・18世紀半ば,ハットンが斉一説を提唱。地球上の自然は,昔も今も同じ自然の法則に従って動いている。
斉一説
「現在の自然現象を観察して岩石や地層に記録された情報を読み取れば地球の過去が類推できる」
・1854年,紀元前1200年のラメセス二世の像が,ナイル川河口の泥の中から発見された。泥砂の堆積は100年間で9センチ弱となる。広大なデルタ地帯が形成されるのに数千年あるいは数万年がかかる。それらの堆積物が隆起して陸地になるにはもっと時間がかかる。聖書の天地創造説を放棄。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/de/Nile_River_and_delta_from_orbit.jpg
ナイル川デルタ(ウィキペディアより)
・スミス,地層の順序性(相重なる地層は下にいくに従い古くなる)と化石により地層の地質時代を同定することを見出す。
地層をたどると古くなるにしたがい下等な生物が産することもわかる。天地創造と人類の生誕を同じにする聖書の記述が否定。
示準化石(ウィキペディアより)
・19世紀,ライエル,ハットンの斉一説を支持し,水や風による浸食風化と堆積,新しい地層の形成,山や陸地の隆起で地球は維持されている。地震や隆起が起こるのは地球の中心熱がエネルギーとなる。ただし,このエネルギーの供給を十分説明できなかった。
・1700年前後,ニュートン,赤熱した鉄の球が冷える実験を行い,地球が現在のようになるには5万年かかると推定。
・18世紀後半,ビュッフォン,ニュートンと同様の実験を行い,地球の年齢は74832歳で今から93291年後に完全に冷却すると結論。
・1862年,ケルビンは地球の年齢をおよそ1億年と見積もる。
このように19世紀後半まで,地球はただ冷却するばかりと考え,地球の年齢を推定した。
真っ赤に熱した鉄球を飴玉の上に置く(eStoryより)
・1896年,ベクレル,ウランの化合物で写真乾板が感光したことで,放射能発見者となる。
ベクレル(1852-1908)ウィキペディアより
ベクレルがウラン塩によって偶然感光させてしまった写真乾板
・ラザフォード,放射性元素が放射壊変していくその壊変法則を利用して岩石の年代を求めることに着目した。
一般に,N0 : 出発時点での放射性元素の個数,N : 出発時点から時間 t 後の核の残数,T : 半減期 としたとき,N=N0(1/2)t/T
・1913年,ホームズ,放射性元素の崩壊現象を利用して岩石の年代を求めることを詳しく述べた著作を公表。
アーサー・ホームズ(1890-1965)ウィキペディアより
・古い岩石が見つかるたびに地球の年齢は改訂される。1941年には26億年。
・地球上の岩石から39.6億年が得られている。その岩石は堆積岩起源で,もととなる岩石が地球に存在していたことになる。
アカスタ片麻岩(カナダ)は39.6億年,アミツォーク片麻岩(グリーンランド)は38億年
ジャックヒルズ花こう岩(オーストラリア)42億年
https://nh.kanagawa-museum.jp/kenkyu/epacs/museum3/g1_1_1p.htm
アカスタ片麻岩の露頭 地球地学紀行(神奈川自然史博物館より)
・地球上の岩石の最古の年代は地球の年齢とはならない。そこで始原物質として隕石を利用する。
・隕石の年齢,46億年が地球の年齢とみなされている。
https://www.nipr.ac.jp/info/notice/20180301.html
隕石の例,長良隕鉄(極地研究所HP)
地球の内部熱源として放射性元素の放射壊変を考えられる。放射壊変の法則を利用して年代を求めることができる。地球の年齢は46億年とされるようになった。
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2のまとめ
近代的な地質学は,18世紀後半の産業革命のころに始まった。水成論や火成論に代表されるよう,ドイツや英国で発展し,地質図が作成されるようになった。この近代的な地質学が日本に導入され,19世紀の終わりに100万分の1縮尺で日本全土の地質図が刊行され,パリ万博に出展するに至った。
地球の年齢について,18世紀になり,聖書の考えを脱却して自然現象から推定するようになった。地球はただ冷却するばかりと考えていたが,放射性元素の放射壊変で地球の内部熱源を考え,地球の年齢ははるかに古く考えられるようになった。
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グローバルテクトニクスの導入 The Earth
based Global Tectonics concept
20世紀になると地球上の地質を統一的に説明しようという動きが出てきた。大陸移動,海洋底拡大,プレートテクトニクスである。火山や地震についても説明できるようになった。
大陸移動説 (ウェゲナー,1915)
大陸移動の様子(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8e/Pangea_animation_03.gif
ウェゲナー(Wegener, A. 1881-1930)
・ウェゲナーは,もともと気象学を専門とし,気球を使った高層気象観測技術などの先駆者であった。
・1915年に『大陸と海洋の起源』で,中生代には大西洋は存在せず,その後,大西洋をはさむ四大陸が分離して移動を開始して大西洋ができたとする「大陸移動説」を主張した。
・大陸移動説の根拠を探すためにグリーンランド探査を行った。最後のグリーンランド踏査の1930年に(おそらく過労による)心臓発作により50歳で死去。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/dc/Alfred_Wegener_Die_Entstehung_der_Kontinente_und_Ozeane_1929.jpgウェゲナー「大陸と海洋の起源」第4版中の図(ウィキペディアより)
補足:ウェゲナーの履歴
1880.11.1生。福音派協会牧師の末子。
1901.ベルリン大学卒業,ベルリン国立天文台の助手。
1904天文学で博士号。
1905.5初めて気球飛行体験。
1905.10デンマークの北東グリーンランド探検計画に参加希望を出す。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5d/Greenland_%28orthographic_projection%29.svg
グリーンランドの位置(ウィキペディアより)
1906.3採用。
1906.6.24出発,グリーンランドに最初の気象観測所設立,上層大気の研究を2年間行う。
1908フィリップス大学のアシスタント講師(気象学,天文学,宇宙物理学)。このころ,大陸移動説を着想。
1911「大気圏の熱力学」出版。
1912.1地質学会で「大陸の水平移動」を講演,地質学者から猛反発を食らう。
1912.7デンマーク探検隊に加わりグリーンランドへ。氷のボーリングなどを行う。
1913.4.20横断旅行を開始。馬が弱って死んでいく。
1913.7.17西海岸にたどり着く。
http://www.environmentandsociety.org/exhibitions/wegener-diaries/expedition2
アイスランドポニーを使ったグリーンランド横断旅行(Rachel Carson Center ポータルより)
1914.7第一次世界大戦に従軍。負傷し傷病休暇。資料収集と考察に没頭。
1915「大陸と海洋の起源」刊行。
1920第二版出版
1922大改訂して第三版刊行。
1929第四版刊行。
1930.4.1ウェゲナーが隊長のグリーンランド遠征隊,コペンハーゲンを出発。
1930.9.21内陸基地(西キャンプ)の隊員救助に向かう。
1930.11.1ウェゲナー誕生日を迎える。この後,西キャンプに向かい,消息途絶える。
1931.5.8捜索隊がウェゲナーの死体を発見。
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大正時代 地質図幅が進展する。その一方,大きな地震が起き,首都を中心に被災する(関東大震災)。
1919
20万分の1地質図完備
関東大震災
1923
関東大震災 M7.9,地震直後の火災の被害が大きかった。
震災復興のため,地質図の出版は一時滞る。
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明治終わりから昭和はじめにかけ,日本は大陸に進出するようになる。資源が期待される中国東北部や当時の朝鮮で地質調査を行う。太平洋戦争では,石油などを求めてインドネシアなど南方にも進出し,地質調査技師が派遣された。
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戦局悪化の第二次世界大戦末期に日本では大きな地震や火山の噴火があった。その一つ,昭和新山の出現と戦争末期の困難な時期に市井の士による貴重な観測を紹介する。
昭和新山の出現 第二次世界大戦末期
戦争末期の物資のない時代,北海道有珠山ふもとに新しい火山が出現した。戦時中で専門家派遣が困難な中,地元の郵便局長だった三松正夫はその火山の成長の観測を行なった。
1943-1945
昭和新山の出現
三松 正夫(みまつ まさお,1888 - 1977)
・昭和新山の成長を記録したアマチュア火山研究家。郵便局長。
・1943年(昭和18年)12月末,有珠山麓の麦畑から突如として溶岩ドーム(昭和新山)が隆起し始めた。翌年初頭から翌々年まで続いたこの山が産まれるプロセスを,三松は“私的”に定点観測を続ける。
・のちに「ミマツダイヤグラム」と命名され,世界でも貴重な火山活動の記録となった。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/usuvolcano/eco77/mimatsuda.jpg
昭和新山,ミマツダイヤグラム,三松正夫(三松記念館より)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/35/Syouwa_volcano201305.jpg
昭和新山は今も熱をおびており,雨天時には溶岩から湯気が立ち上がる(ウィキペディアより)
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戦後の復興
戦後,日本国内の復興の中,地質調査事業も進められ,金属鉱山や炭鉱の開発に貢献した。また,世界の動きに合わせ,南極観測が始まる。
・1949 7.5万分の1地質図を5万分の1縮尺に変更(精度をあげるとともに市販地形図と図郭をあわせて使い勝手を良くする)
・1954 新20万分の1地質図編集開始(戦前の20万分の1地質図は調査に基づくもの。新20万分の1は既存図を基礎に5万分の1地質図のデータを盛り込んだ編さん図である)
・1957 日本南極観測隊,昭和基地開設
南極大陸上陸
けっしてまだ日本が豊かでない中,世界の動きに遅れまいと国の事業で南極観測を開始。
初期の探検要素が強い中,地質隊員が活躍する。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/a/a1/Soyapl107a.jpg
第1次南極観測隊当時の観測船「宗谷」(ウィキペディアより)
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プレートテクトニクスの登場
1960年代に入り,地球の見方が大きく変わる。海底の情報が増え,プレートテクトニクスの考えが出現する。半世紀前のウェゲナーの大陸移動説が再評価されることとなった。
・1963, 1966 Vine, F. J.; 地磁気異常の記録から海洋底拡大説を主張する。
・1969 Cox, A.; さらに発展してプレートテクトニクスを主張する。
プレートテクトニクス
地球は複数の硬いプレートでおおわれていて,それらの相互作用で地震や火山活動がおきる。
復習:第1章で使ったプレートの図を再び見てみる。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b4/Plates_tect2_ja.svg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6f/Oceanic_spreading.png
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阪神・淡路大震災
– 活断層に注目
西日本では大きな地震は起きないと思われていたが,1995年に神戸で地震が起きた(兵庫県南部地震)。日本は地震国であることを再認識させられた。この地震の後,“活断層”に注目が集まるようになった。
・1995 阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震) M7.3がおきた。
・この震災を契機として活断層が注目されるようになった。
・活断層:最近数十万年間にくり返し活動した地震断層で,今後も活動する可能性があるもの。
・この震災以後,活断層が地質図上に記されるようになり,都市部の活断層図が市販されるようになる。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/87/Map_of_Great_Hanshin_Awaji_Earthquake_Ja.png
兵庫県南部地震で地表に現れた断層(野島断層),ウィキペディアより
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東日本震災(東北地方太平洋沖地震)
2011年には東北地方で大きな地震が起きた。地震そのものの建物の被害は少なかったが,大津波とそれによる福島原子力発電所の事故が起こった。
想定外ということが盛んに言われるようなったが,この地域では約1000年前に,大地震で津波被害があったことが古文書でわかっていた。この記録をもとに宮城県の女川原子力発電所は経費がかかったが津波到達地点より高台に予定を変更して発電所を設置した。実際東日本震災で津波からのがれ,逆に被災者の避難場所ともなった。
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人新世の提唱
地質時代区分で,第四紀のはじまりは258万年前,このうち258-1.8万年前を更新世,1.8万年前から現在を完新世という。ところが人類の活動による地形の改変や人為的な地層の形成が地質の記録に残るようになってきた。地球温暖化で地球環境の変化も顕在化してきた。そこで,新しい地質時代,人新世が提唱されるようなった。
地球環境の急速な変化は次の通り。
・5万年前から人類の活動範囲が広がり哺乳類や鳥類の一部が絶滅。
・1万年前,人類は定住し農耕を始める。森林開墾,製錬で金属入手。
・18世紀終わりごろの産業革命初期に人類が地球の歴史を左右するようになり,地球環境に人為的な影響があることが指摘。
・20世紀後半に影響が顕著になり,温室効果ガスで気候の急速な変化が始まり,酸性雨被害表面化,人類の生活圏拡大で生物種の絶滅加速。
・2000年,Cruzenが新しい地質時代,アンソロポセン(人新世)に入っていると主張。森林伐採,過度の漁獲,窒素肥料を引き合いに出す。
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問3
1995年の阪神・淡路大震災で注目を浴びるようになった地質現象とは何か?
(回答例は3まとめの後)
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3のまとめ
地質現象をプレートテクトニクスなどグローバルな観点から説明できるようになった。日本に目を向けると,着々と地質図が整備されていく一方,地震や津波など日本に特徴的な地質災害が頻繁におきている。
問3
回答例:活断層
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4地震の基礎と南海トラフ地震
地震 地殻やマントルに蓄積したひずみが一瞬で解放され発生する。
震度 揺れの強さをはかるものさし。
気象庁震度階級
https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/shindo/kaisetsu.html
震度階級と人の感じ方や行動
0 人は揺れを感じない
1 屋内で静かにしている人の中には,揺れを感じる人がいる。
2 屋内で静かにしている人の大半が,揺れを感じる。
3 屋内にいる人のほとんどが,揺れを感じる。
4 ほとんどの人が驚く。歩いている人のほとんどが,揺れを感じる。
5弱 大半の人が,恐怖を覚え,物につかまりたいと感じる。
5強 大半の人が,物につかまらないと歩くことが難しい
6弱 立っていることが困難になる。
6強-7 立っていることができない。揺れに飛ばされることもある。
震源 地震の開始地点(地震となるずれを生じた断層上の1点)。通常は地下にあり,震源の真上の地表を震央(しんおう)という。
(国土交通省)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a3/Epicenter_Diagram.svg
(ウィキペディア英)
震源の決定 地震発生と同時にP波(縦波)とS波(横波)が震源から同時に伝わり始める。観測点にはP波が速く伝わる。P波とS波の到着時間の差(初期微動継続時間)をTとすると,震源までの距離Dは,
D(km)
= k x T(sec)
日本付近ではk= 6-8 km/s
3つの観測点でTがわかれば震源の位置を決定できる。
https://www.hinet.bosai.go.jp/about_earthquake/PNG/fig3.3.png
(防災科研 Hi-net)
マグニチュード 地震の規模をあらわすものさし。マグニチュードが1大きくなると地震のエネルギーは約32倍大きくなる。
マグニチュード(M)=1/1.5×log10エネルギー(E)+c。
Mが1大きくなったときEがe倍となったとすると,
M+1=1/1.5×log10e×E+c,1=1/1.5×log10e,log10e=1.5,つまりe=101.5。
マグニチュードの決定 震源から離れると地震のゆれは小さくなる。つまり地震計で測る波の振幅が小さくなる。この効果を補正した値の常用定数で定める。波の周期を加味した断層エネルギーからもマグニチュードを求めことができる。
補足:リヒターのマグニチュードからモーメントマグニチュードへ
リヒター(C. Richter) は震源から100km地点に置かれた地震計(ウッド・アンダーソン式地震計)で記録された地震の最大振幅の桁数(常用対数log)をマグニチュードと定義した。
実際には震源から100kmに必ずしも地震計があるわけでないので、さまざまの補正の式が提案された。このマグニチュードはカリフォルニア付近の浅い地震にてきようできるものでリヒターのローカルマグニチュードMLと呼ばれている。
1940年代に入り汎用性のあるマグニチュードが検討されるようになった。実体波マグニチュードや表面波マグニチュードが代表的なものである。
日本では気象庁マグニチュードMjが独自に発達した。中周期変位型地震計と短周期速度型地震計で観測している。地震の規模が比較的大きい場合は中周期変位型地震計に記録される最大振幅からマグニチュードが産出される。
地震によって放出される地震波の周期は地震の規模によって異なることがわかってきて特定の周期だけでは地震の全体像が見えない。
マグニチュードが7から8をこえるあたりから頭打ちになるのでモーメントマグニチュードMwを用いるようになった。これはカリフォルニア工科大学の金森博雄先生によって提案された。震源域の大きさとすべり量と岩盤の堅さを表す数値(剛性率)からかけあわせ断層のモーメントMoを求める。それからモーメントマグニチュードMwを得る。
Mw
= (logMo - 9.1) / 1.5
東北地方太平洋沖地震では、当初気象庁マグニチュードは7.9と直ちに求められたが、モーメントマグニチュードを算出し、数時間後にモーメントマグニチュードが発表された。その後も計算の見直しが行われ、最終的にMw9.0が求められた。
「海溝型地震」と「活断層(内陸型)地震」
地震は大きく分けると2つのタイプに大きく分けられる。1つは,海底が震源となる「海溝型地震」,もう1つは陸地の地下が震源となる「活断層(内陸型)地震」である。
例えば,東日本大震災や関東大震災は,「海溝型地震」,1995年の阪神淡路大震災や2016年の熊本地震は,「活断層(内陸型)地震」である。
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地震のメカニズム(内閣府,防災情報)
https://www.bousai.go.jp/kohou/kouhoubousai/h21/05/special_02.html
海溝型地震
太平洋側の海底にはプレートと呼ばれる厚い岩板があり,太平洋側から日本列島に押し寄せてくる。日本列島に直接ぶつからず斜め下に沈む。日本列島のほうも引きずられて沈む。しばらく力に耐えながら沈むが沈むのにも限界があり,もとに戻ろうとはねかえる。このはねかえりが海溝型地震のしくみである。
内陸型地震
活断層が動くことで発生する。活断層とは,何年かの周期で繰り返し動いている断層,今も活動している「活(い)きた断層」ということから活断層と名づけられる。
活断層はどのようにしてできるか。海のプレートが押し寄せ列島の内陸にストレスがかかる。そのストレスにより陸地の弱い部分の岩石が割れ地震が発生する。その後,岩盤に新たに力が加わるとどの断層が動いて再び地震が起きる。このようにいちどできた断層は,次の地震の震源になっていく。このように繰り返し動いている断層を,未来まで活動するという意味で活断層と呼ぶ。
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予想される南海トラフ巨大地震(2035年±5年)
周期性からの予測
過去1400年間を見ると,南海トラフでは約100〜200年の間隔で蓄積されたひずみを解放する大地震が発生している。大地震の発生場所近年では,昭和東南海地震(1944年),昭和南海地震(1946年)がこれに当たる。昭和東南海地震及び昭和南海地震が起きてから70年近くが経過しており,南海トラフにおける次の大地震発生の可能性が高まってきている。
過去に南海トラフで発生した大地震(地震本部)
https://www.static.jishin.go.jp/resource/regional_seismicity/kaiko/k_nankai_kako.gif
地震活動の統計モデルから予測すると次の大地震の発生は2038年ごろとなる
土地の隆起からの予測
南海地震は「海の地震」(海溝型地震)で地震がおきると土地が隆起する,隆起量の大きさから次の地震の発生までの期間が予測される。
隆起量モデルによる南海トラフ巨大地震の予測(ウィキペディアより)
室津港の隆起量:宝永(1707年)1.8m,安政(1854年)1.2m,昭和(1946年)1.15m隆起
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参考:
名経大Webで得られるE-Book
理科のおさらい‐天文‐ 29地球の公転と自転
動画:大陸移動説(NHK)59秒
https://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005400838_00000
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遠隔授業実施の場合の課題例
1.1915年にドイツのウェゲナーが提案した地球の過去を理解するための説を何と言うか。
2.ウェゲナーの説を発展させ,1969年にコックスが提案した説を何と言うか。
3.質問や感想があれば自由に書いてください。
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(以下余白)