地質列伝:
ベンジャミン・スミス・ライマン(来曼)
Benjamin Smith Lyman
参考文献
今井 功(1963)地質調査事業の先覚者たち(4) 炭田・油田開発の貢献者-ライマン- 地質ニュース111,29-35
副見恭子(1994)ライマン雑記(10) 地質ニュース476,45-53
副見恭子(1995)ライマン雑記(11) 地質ニュース486,56-66
副見恭子(1999)ライマン雑記(17) 地質ニュース541,54-60
まえがき
日本の地質学黎明期には何人かの外国人専門家が招へいされた。代表的な3人をあげる。
・パンペリー(1837-1923)米国出身,江戸幕府の招へい。幕末に蝦夷地の地質調査と鉱山調査を行う。文久2年(1862)から文久3年(1863),日本に滞在。
・ライマン(1835-1920)米国出身,北海道の地質調査と日本全国の石油調査を行う。日本で最初の本格的地質図となる蝦夷地200万分の1地質図を作成している。多くの弟子を育てた。明治5年(1872)来日,9年間日本に滞在。
・ナウマン(1854-1927)ドイツ出身,東京大学設立当時の最初の地質学教授,地質調査所設立にも貢献。明治8年(1875)来日,10年間日本に滞在。
ここではライマンを紹介する。日本で最初の本格的な地質図を作成し,地質調査事業の先覚者の一人として,また炭田・油田開発の貢献者として評価されている。その地質図出版の日付にちなみ,「日本の地質の日,5月9日」が定められている。
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1 来日前,地質技術者として,特に石炭や石油の調査を行う
ライマンの先祖は1654年にマサチューセッツ州西部ノーサンプトンに最初の開拓者としてやってきてその地に定着し栄えた。
19世紀には,ライマン家は人々に畏敬の念でみられた名門であった。
マサチューセッツ州(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f5/Massachusetts_in_United_States.svg
マサチューセッツ州内のノーサンプトン(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b1/Northampton_ma_highlight.png
赤色がノーサンプトン
1835年にライマンはマサチューセッツ州のノーサンプトンで出生。父親は判事,母親は名家の娘であった。
ノーサンプトンの初等学校からフィリッピ・エキスター学校をへてハーバード大学に入学。
1855年,ライマンは20歳で大学を卒業している。
卒業後,中学校の先生をしていたが,あきたらず,アメリカ鉄鉱協会の会長だった叔父の助手となり,1857年に南部に旅行し測量調査に従事する。
翌年,ジェームス・ホールの指導でアイオワ州の地質調査に従事する。ライマンはホールの学究態度に感銘をうけ,地質学の基礎知識を習得しようと考える。
ジェームス・ホール James Hall (ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/16/James_Hall_paleantologist.jpg
1859年にパリの鉱山学校で学び,さらに1861年にドイツのフライベルクにあるフライベルク鉱山学校(現在のフライベルク工科大学)に留学し,鉱山学を学んだ。
1866年頃のフライベルグ鉱山学校 (ウィキペディア)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2e/Bergakademie_in_Freiberg_in_1866.jpg
1862年9月,南北戦争のため故郷ノーサンプトンに帰る。軍隊に入らず,ペンシルベニア州地質調査所にいた叔父レスラーを手伝い各地の地質測量調査に従事する。石炭の埋蔵量を知るための地下等深線図を考案する。
このころは世界各地の油田が本格的に開発されだした。
1870年,英国政府の委嘱を受け,インド北西部パンジャブ地方の石油調査に1年従事する。
1871年,インドの調査後,米国帰国の途中に日本に立ち寄っている。
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2 日本における調査,北海道全土の地質調査や日本の石油調査
1872年(明治5年)12月17日 サンフランシスコ発(汽船アラスカ丸)
1873年(明治6年)1月17日 日本着,翌18日江戸到着,江戸ホテルへ。
ライマン来日について明治5年と信じるむきがあるが,太陽暦採用で明治5年2月3日が明治6年元旦になったことの混乱らしい(副見,1990,地質ニュース427)。
1月18日,ホテル到着後,ただちに黒田清隆開拓使長官あて到着の手紙を書く。
北海道庁のトーマス・アンチセルの後任として,3年間契約で開拓使雇となる。
1873-1879年の北海道開拓使本庁舎 北海道開拓の村で外観再現(ウィキペディア)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d3/KaitakushiSapporoHonchosha1873-restoration.jpg
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2.1 北海道の調査 明治6年(1873)
4月18日 出発,21日函館着。
その後,11月10日まで,石狩,後志(しりべし),胆振(いぶり)各地方の石炭・石油・硫黄・砂金を調査した。日中は山野を歩き,夕方は川岸にテントをはり露営。雨天の日には,テント内で助手(学生)たちに数学を教えるなどした。
合間にケプロンとともに移民開拓地を視察し,さらに榎本武揚や荒井郁之助などと交際した。
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参考:
ホーレス・ケプロン(1804-1885)
アメリカ合衆国政府で農務局長となった。1871年(明治3 - 4年),渡米していた黒田清隆に懇願され,職を辞し,同年7月訪日。開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問となる。1875年(明治8年)5月帰国。この間に北海道の道路建設,鉱業,工業,農業,水産業など,開拓のほぼ全領域に渡っている。
ウィキペディア:
榎本武揚 (1836-1908)
伊能忠敬の弟子であった幕臣榎本武規の次男として生まれる。長崎海軍伝習所で学んだ後,オランダへ留学。帰国後,幕府海軍の指揮官,戊辰戦争で旧幕府軍を率いる。箱館戦争で漢軍に降伏,投獄後釈放され明治政府に使える。北海道で資源調査,ロシア公使などを経て,内閣制度開始後は外務大臣や農商務大臣などを歴任した。東京地学協会を創設するなど地質分野でも貢献した。
ウィキペディア:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E6%8F%9A
荒井郁之助(1836-1909)
幕府御家人(後に関東郡代付の代官),荒井清兵衛の長男。幕府出仕後,軍艦総連,測量高等数学を学ぶ。榎本武揚とともに箱館戦争に身を投じる。榎本同様に降伏,投獄を経て釈放,明治政府に仕える。北海道で三角測量を行う。その後,内務省地理局で全国大三角測量を計画。1890年(明治23年)には初代中央気象台長に就任する。その間の1878(明治11年)内務省地理局地質課が設置され,その課長となる。測量課長を本務とした併任である。地質課は1882年設立の地質調査所の前身である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E4%BA%95%E9%83%81%E4%B9%8B%E5%8A%A9
(ウィキペディア)
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ライマンの北海道南部地域調査地は次の通り。
マンローと学生7名をひきつれる
学生:茅潤(茅沼)炭山,ユーラップ鉛山,幌内炭山,岩雄登硫黄山,山越内および鷲の木石油地,泉沢石油地を測量調査
ライマン:積丹半島,定山渓,有珠,登別,樽前,幌別,登刺別駒岳,恵山,古武井を巡回。
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2.2 北海道の調査 明治7年(1874)
5月19日 汽船ニューヨークで横浜発,20日函館着
26日 札幌へ向かうのであるが,まず1日かけ森まで行く
27日 森から連絡船しんび丸でモロラン(室蘭)へ7時間半かけて向かう。
6月2日 開拓農地視察などを行い苫小牧着
千歳から新道を通る
4日 札幌着
1874年の調査旅行ルート 副見(1994,1995)より転載
札幌-神居古潭(6/17-7/10)
6月17日 ボート2そう,カヌー11そうで豊平川から大遠征の途につく。
十勝川で食料補給が行われるまで75日間を見込んで食料を用意する。
石狩川に入り江別河口でキャンプ。
18日 7そうのカヌーに3人が分譲して夕張川へ。
19日 石炭れきを見つけ興奮。
21日 江別キャンプへもどる。
その後も石狩川を上るが,途中でいくつかの支流を調査
7月4-7日 石炭を求め奥地へ
空知炭層の将来性を認める。炭田を開き鉄道を敷き,札幌経由で小樽へ輸送する考えをもつ。
7月10日 神居古潭着
神居古潭(ウィキペディアより)
神居古潭-愛別(7/11-7/15)
7月11日神居古潭の岩石を調べる。例えば大理石や蛇紋岩に着目する。
12日一部を送り返し,上川盆地横断準備を整える。
総勢56名,カヌー(巨木を掘りぬいたもの)11そうで繰り出す。
流れは衰える。石狩岳が見えてくる。
石狩岳(ウィキペディアより)
15日愛別着。
愛別-ホロカイシカリ(7/16-7/23)
7月16日 愛別発
17日 奔流激しくなる。十勝岳が見える。
19日 アイヌからこの先陸路をとることが提案。
21日 前進はじめる。
ライマンは方角をすぐに読めるようコンパスを双眼鏡用の皮ケースにおさめ胸にぶらさげた。歩数計の代用に,18個の小石をポケットに入れた。小石は2種あり,一つを百歩ごと,もう一つは千歩ごとにもう一方のポケットに移し歩数を計る。峡谷では便利である。
行く手に大岩壁がそびえる。幕営後アイヌ全体の協力で夕刻までに頑丈な丸木橋が仕上がる。
22日 前日仕上がった丸木橋を渡ると行く手に早瀬・絶壁・滝・巨岩・激流が待ち構え,よじ登りと徒渉のくり返しで筆舌に尽くしがたい。キャンプ地に向かい,疲れ果てたライマンは大男のアイヌにおんぶされ川を渡る。
23日 大岩壁群(現在の層雲峡)を脱出。
層雲峡,大函(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Oobako%28hokkaido%29.jpg
層雲峡,銀河の滝(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/59/Ginganotaki.jpg
この一帯を抜けるのにライマン一行は難儀した。
ホロカイシカリ
24日 平地が増え,渡渉が楽になる。
25日 岩山へ向かっているとき,アイヌが額に大きな石があたり深手を負う。ライマンが救急処置を行う。旅が終わるまで,風呂敷を頭に巻いていた。
開拓峠を越える。
草や灌木につかまり斜面をくだる。谷間で野営。
26日 2時間を炊事と朝食にかける。少し進み,午後は休養とする。
27日 断崖や支流は減り,たびたび平地を歩く。休憩時にはマス釣りを行う者ある。
28日 アイヌの住宅がある。まだ十勝川でなく音更(おとふけ)川。
29日 距離が進む。
30日 なかなか集落(札内)に出ない。
31日 ライマンはキャンプ地にとどまる。
8月1日 20人のアイヌと通訳が別れる。彼らは来た道を通り帰郷する。負傷したアイヌは笑みをたたえ別れのあいさつをする。
8月2日 一気に川を下り大津到着。ライマンは本陣に泊まる。
4日 残るアイヌがコタンへ帰る。
十勝川河口(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/df/Tokachi_Riv_1.JPG
道東,道北
8月5日 大津から広尾に向かう。途中砂金産地に寄る。
6日 広尾本陣入り。同地に滞在する。
11日 広尾発,大津着。
12日 大津発,白糠着。
13日 白糠発釧路着,炭質頁岩,砂岩,石炭塊,遺棄された炭坑を調査。
14日 春採炭鉱へ。
15日 石炭露頭や炭鉱を観察。厚岸着。
釧路炭田:https://www.city.kushiro.lg.jp/www/common/003hp/jidai/index1-1.htm
釧路市資料。白糠や春採の炭山についてふれている。
釧路地方で採炭(=石炭を掘ること)が始まったのは1857年で,その目的は函館に来る外国船に燃料として提供するためだった。場所は現在の釧路市益浦や白糠町石炭岬で,特に白糠では7年間にわたり石炭を採掘した。
さらに川湯硫黄山で採りだした硫黄を運ぶために釧路鉄道が硫黄山と標茶間に敷かれた。その鉄道を動かし硫黄を精錬するための石炭が必要だった。また精錬された硫黄を運ぶために汽船を動かす燃料としても石炭が必要だった。これには春採の石炭が使われた。
16日 休養。厚岸本陣の話を傾聴した。
17日 浜中へ前進。
18日 雨で停滞。
19日 落石(おちいし)を目指す。
20日 根室着。国後島と択捉島を訪れたいが,船の日程とあわず渡航断念。
21日 根室知事の訪問を受け,めのうを贈られる。ライマンの体調がすぐれない。
27日 調査再開。根室半島東端納沙布(のさっぷ)岬へ。
28日 暴風雨で停滞。
29日 根室発。風連湖岸に到着。
30日 別海着。
31日 標津(しべつ)着。知床の情報収集。
9月1日 内陸の道をとる。チライワタラ着。
2日 チライワタラ発,標津温泉などを調査。若老着。
3日 雨で停滞。
4日 雨の中,斜里着。ここからは舟で移動。
5日 砂州に乗り上げるなどして,難儀するが,ポロトマリまで進み,番屋泊。
6日 ウトロを過ぎ岩尾別着。
7日 風があり舟の出発遅れ,その間に地質調査。午後出立,カムイベツ着。
8日 徒歩で硫黄山へ向かう。硫黄山山頂への途中,硫黄流出の穴を見出し驚嘆。硫黄・岩石を収集。キャンプ地へもどる。
アトサヌプリ(別名:硫黄山)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%88%E3%82%B5%E3%83%8C%E3%83%97%E3%83%AA
山麓の噴気孔
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e8/Mount_Io_Teshikaga_Hokkaido_Japan01s3.jpg
(ウィキペディアより)
9日 斜里へ陸路でもどることする。難儀して岩尾別着。
10日 予定を変更して遠音別(おんねべつ)へ向かい,同地泊。
11日 途中の番屋から馬に乗り斜里着。
12日 斜里発網走着。
13日 能取(のとろ)湖などを経て,常呂へ。
14日 悪天候で停滞。
15日 常呂発,サロマ湖を経て湧別着。
16日 湧別発,紋別村へ。本陣は豪勢。
17日 雨。内業,蝦夷地図作成中,色刷り全島地質図を着想する。
18日-23日 沢木,チカブトムシ,枝幸(えさし),斜内,猿払(さるふつ)と移動,克明な地質調査記録を残す。
24日 猿払から宗谷に向かうが,荒天で杖苫内泊。
25日 宗谷村着。ライマンは樺太の情報や利尻島の岩石の情報を収集。
26日 野寒布(のしゃっぷ)岬をまわるなどして抜海(ばっかい)着。礼文島と利尻島が間近に見える。
のしゃっぷ岬
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%AF%92%E5%B8%83%E5%B2%AC
音別町から見た利尻島
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/34/Rishiri_Island.jpg
(ウィキペディアより)
27日 天塩へと進む。天塩川上流の石炭の情報を得る。
28日 四苦八苦して風連別着。その年の2月の地震の爪痕がある。
29日 苫前着。大地震が2月に起こっている。数日暴風雨。停滞。
苫前町
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%AB%E5%89%8D%E7%94%BA
(ウィキペディアより)
10月5日 苫前発。へらしべつ着。
6日 へらしべつ川を遡上。野営。
7日 石炭層あらわれる。留萌炭山間近で幕営。
8日 放棄されている炭鉱などを調査。復路につく。
留萌炭田:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%99%E8%90%8C%E7%82%AD%E7%94%B0
(ウィキペディア)
9日 さらに川を下る。留萌着。
10日 増毛着。札幌を発ってから初めての学校。蝦夷で最高のホテルを有す。
増毛町:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E6%AF%9B%E7%94%BA
(ウィキペディア)
11日 山道をたどり浜増毛着。
12日 暴風雨で停滞。
13日 徒歩で出発。山道。強行軍で夜に厚田着。
14日 人足が夜通し歩いて早朝に到着。全員揃い午後に厚田を発つ。石狩村着,新しい建物が林立。
15日 小樽へ向かう。月初めの暴風雨で道が流されており遠回りして小樽内到着。
16日 余市本陣着,翌日岩内で落ち合うことを言い残し,丘陵や峡谷を踏査して,るべしべ着。
17日 るべしべを離れ,山道をたどり岩内着。
18日 雷電山,歌棄(うたすつ)を経て黒松内本陣着。
19日 悪路と山道をたどり昼に長万部着,長めの休憩をとる。午後,遊楽部を経て山越内着。
20日 馬を次々に変えて,落部,森,七飯を経て函館着。
10月24日 函館出帆。
10月27日 帰京。
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2.3 北海道の調査 明治8年(1875)
6月から10月の約100日間の調査。
主に茅沼と空知の各炭田の精査を行った。
学生たちは,美唄,奈井江など各地で良炭層を発見し,石狩炭田開発の基礎をかためる。
地質調査のほかに,開拓使の仕事として幌内鉄道測量にも従事した。
明治9年(1876)
ライマンは北海道地質調査の総まとめとして「日本蝦夷地質要略之図」をあらわす。
200万分の1「日本蝦夷地質要略之図」(日本地質学会より)
http://www.geosociety.jp/uploads/fckeditor/geophoto_img/2007.12_1.jpg
ライマンの北海道岩相区分
これは200万分の1北海道地質図で,総合的な地質図としては日本最初のものである。
この地質図の説明書にあたるものが,次のように翌年と翌々年に刊行される。
明治10年(1877) A General Report on the Geology of Yesso
明治11年(1878) 開拓使 北海道地質総論
ライマンの地質区分(今井,1963)
ライマンの層序 |
現在(1963年当時)の区分に対応させたもの |
新沈積層 古沈積層 新火山石層 登志別層 古火山石層 幌向層 鴨居古潭石層 |
沖積層,火山灰層 段丘堆積層 第四紀火山岩類 油田第三系 第三紀火山岩類(緑色凝灰岩) 夾炭古第三系と白亜系 神居古潭変成岩類および古期岩類 |
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2.4 全国油田地質調査
明治8年11月で開拓使との契約のきれたライマンは,内務省勧業寮での油田調査事業を担当することとなる。
明治9年(1876)6月から9月 信越地域を中心に油田調査
助手たちをいくつかの班に編成し,調査地域を分担させ,ライマンは広域の予察を行う。
調査の合間に「北海道地質総論」をまとめた。
ライマンの油田調査経路(今井,1963から転載)
明治10年(1877),勧業寮は廃止となり,油田調査は工部省工作局に移管された。
桑田知明・西山正吾が秋田県下の油田,杉浦譲三と坂市太郎が静岡の相良油田,ほかは3班に分かれ新潟の油田を調査。
ライマンは安達仁造をともない5月に相良油田,7月から12月まで近畿以東の予察旅行を行う。
明治11年(1878),助手たちの大部分は新潟の油田調査,ライマンは6月から翌年の2月まで関東以西の予察旅行を行う。
明治12年(1879),工部省は開発(採油技術)に力を入れるようになった。
ライマンは7月に工部省を去る。その後もライマンは自費で日本にとどまり,調査結果をまとめる。
明治13年(1880),報告書類と新潟県の油田地質図は完成。
明治14年(1881)の春,ライマンは日本を去る。助手たちは四散し,炭田の発見や地質調査所図幅調査等で貢献する。
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3 アメリカ帰国後,ペンシルバニア州地質調査所で奉職
1882年(明治15年),ペンシルバニア州地質調査所で無煙炭調査に従事する。
工部省を退官して渡米した賀田貞一と日本での油田調査のまとめを行い,「日本油田之地質及び地形図」が完成する。ライマンが私費で200部を印刷する。
賀田はライマンと無煙炭調査に従事し,明治16年に帰国。
その後,ライマンは,桑田知明を米国へ招へいし,炭田調査に従事した。
桑田は米国内や英国の炭鉱を視察して明治19年(1886)に帰国する。
1887年(明治20年),ライマンはペンシルバニア州地質調査所次長になる。
1895年(明治28年),ライマンは60歳となりペンシルバニア州地質調査所を辞す。
1906年(明治39年),ライマン,炭鉱調査のため,フィリピンへ向かう。
その途上に日本に立ちよる。弟子たちが各地から集まり,30年の昔を偲ぶ。
1920年(大正9年)8月30日,ライマン逝去,享年86歳。
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付録:ライマンの弟子の例 西山正吾
多くの弟子がいたが,地質調査所の初期の地質図幅にかかわった西山正吾をとりあげる。
参考文献 副見恭子(1999)ライマン雑記(17) 地質ニュース541,54-60
1852年(嘉永5年)上田にて出生。
明治5年(1872)開拓使仮学校入学,ライマンの第二回北海道地質調査に加わる。その後越後石油調査に従事する。
明治13年(1880)ライマンの帰国があり,西山は内務省地質課に入る。ここは2年後地質調査所となる。その間に各地を地質調査し,報文を残す。
その代表例
地質調査所20万分の1地質図「伊豆」(1884,1885)を担当。
20万分の1地質図幅「伊豆」および同説明書
https://gbank.gsj.jp/ld/app/darc/#70000678
明治20年(1887)北海道庁に移り全道地質鉱産調査に加わる。
明治23年(1890)北海道庁を非職。
明治25年(1892)農商務省鉱山監督署。
明治32年(1899)三井鉱山会社入社。
この間,内外の地質鉱床を調査,中でも三井北海道炭田の開発の基礎をきづいたことは特筆。
大正9年(1920)退職
昭和5年(1930)没
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