英国の地質学の父 ウィリアム・スミス
地球科学史や地質図の章ですでにふれましたが、ウィリアム・スミスは、地質学の諸原理を発表し、また英国の色刷りの本格的な地質図を刊行しました。時代が産業革命の頃であるという背景をふまえながら、彼の生涯をかいつまんで紹介します。
主な参考文献
サイモン・ウィンチェスター、野中邦子訳 2004:世界を変えた地図 ウィリアム・スミスと地質学の誕生。早川書房、pp.
372.
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略歴
ウィリアム・スミス(William Smith, 1769年3月23日 - 1839年8月28日)は、イギリスの土木技師・地質学者である。イギリス本土の地質図を初めて作ったことなどで知られている
肖像
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/66/William_Smith.g.jpg
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スミス少年期
1769 オックスフォードシャーのチャーチルという農村の鍛冶屋で、長男として生まれた。
8歳で父親を失い、母親のアン・ウィリアムが再婚するまでの二年間、弟二人と妹の4人が伯父の家で育てられた。
学校の成績はかなり良かったが、家が貧しいため、大学へ進学できなかった。
学校を出るころには、農村の若者にしては珍しくあちこちを旅してまわっていた。
オックスフォードシャー州
地図
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/Oxfordshire_UK_locator_map_2010.svg
(ウィキペディアより)
少年スミスとポンド石
オックスフォードシャ―一帯でははかりで1ポンド分のバターをはかるとき、近所の石切場で見つかる丸石を使っていた。
それは円形や五角形で底の部分はやや平らではかりに載せても転がらない。
形はさまざまなのにどれもだいたい22オンス(623 g)でこの重さを「ロング・ポンド」とよばれた。
この石にスミスは心を奪われた。
海岸に生息するウニ(クリペウス・プロティ)そのものが石になっている。
一番近い海岸からでも150km、高度にして100mへだたった草原で見つかるのか、と疑問をもった。
その当時、化石の説明はなく、形をなした石であった。
ウニの一つ、タコノマクラ ポンド石の形(模様)に近い
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当時の背景
宗教観
聖書の考えがまだ強かった。
神が天地を創造 BC 4004、10月23日(月)AM 900
化石はフィギュアドストーン形をなした石、神の御業(みわざ)ははかりがたいとした。
ただし、聖書にしばられない科学観も台頭してきた。
産業革命
スミスが生まれた1769年は産業革命を象徴する発明があいついだ。
1769 ジェームス・ワット、蒸気機関の特許取得
1769 ジョサイア・ウェッジウッド、大規模な陶器製造工場をオープン
1769 リチャード・アークライト、水力紡績機を発明
この当時、鉄や石炭の生産量は20年ごとに倍増、そして鉄や石炭、それに関連する製品を運ぶための運河建設ブームが生まれかけていた。
ジェームス・ワット
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/15/Watt_James_von_Breda.jpg
ワットの蒸気機関
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9e/Maquina_vapor_Watt_ETSIIM.jpg
リチャード・アークライト
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ea/Arkwright_Richard_1790.jpg
水力紡績機(模型)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/04/Waterframe.jpg
運河ブーム
1759 ブリッジウォーター公爵、70kmの水路を完成、
ランカシャーのワーズリー鉱山の石炭を直接マンチェスターまで運ぶ。
運河をつかうことで石炭価格が半分まで下げる。
これが契機となり、英国中で運河ブームがはじまる。特に炭鉱所有者の間で運河熱が広がった。
英国運河時代(1760年代-1830年代)の運河(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2d/Bridgewater_Canal%2C_Runcorn_1.jpg
英国の運河(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/90/Map_of_canals_of_the_United_Kingdom.png
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測量を学ぶ
道路が整備され、領地は測量されて造園し、河川が改良され、そして土地を分配して耕作するエンクロージャーを行うため、測量の需要が多くなる。
スミスは本をなかなか買えない中、「測量法」を手に入れる。そしてスミスは測量を実地で学ぶ機会を得る。
1787 測量士エドワード・ウェッブの助手として働き始め、短期間で仕事を覚えた。この時は18歳だった。
チャーチルの伯父の家を出て、ウェッブと仕事し、一緒に旅行もした。
1788 19歳の時、チャーチル出身の元インド総督ウォーレン・ヘースティングズの領地(耕作用貸付地)の測量をウェッブから任され、正確な測量で成功を収めた。
ウォーレン・ヘースティングズ(Warren Hastings, 1732.12.6-1818.8.22)
英領インドの初代総督(1772-1786)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/ff/Warren_Hastings_greyscale.jpg
(ウィキペディアより)
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地層の重なりの原理にきづく
エドワード・ウェッブからまわってきた仕事でサマセットに向かう。
1791 サマセット着
貴族の領地を測量して査定する仕事であった。
ハイ・リトルトン石炭会社で測量、設計、排水が仕事の中身である。
この地域の地層
コールメージャーズ 上部、中部、下部からなる。石炭紀上部ウェストファリア統である。
スミスはサマセット炭鉱運河会社に雇われる。
鉱山測量士およびサマセット石炭運河の主任測量士として働く。
石炭の試錐孔をたびたび調査する機会がある。
スミスはこのメアーンズ・ピットの立坑全てに降りた。
地層の上部ではゆるく傾斜しているだけだが、下の方では岩石は押しつぶされ歪んでいることを観察する。
英国、サマセット州
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/67/Somerset_UK_locator_map_2010.svg
ダンカートン・アンド・ラドストック運河のルート決定のための測量をうけおう。
6ヶ月の仕事の後、他の地域の運河ルートがどう決められているかを視察する。
2ヶ月の旅行でイングランドとウェールズの1500kmを走破する。
サマセット石炭運河 スミスが担当した運河でここでの地質の観察が地層の規則性や地質図のヒントとなる。
https://en.wikipedia.org/wiki/Somerset_Coal_Canal
https://en.wikipedia.org/wiki/Somerset_Coal_Canal#/media/File:Somerset_Coal_Canal_Map.png
地層の重なりの規則性を徐々に気づく。
炭鉱での地層の重なりが広範な地域の地質にも合致するかを確認する機会となる。
そして次のように考えた。
・ここの炭鉱で観察した地層の重なりはほかの場所にも応用できるのではないか。
・さらには、地質の予測が可能な地図を作成できるのではないか。
・断面図をかき、図表にするのは、容易に考えられるが、地層が水平に(地表に)どう表れるかを予測する地図をどう表現するか、厄介であった。
1798 (地下の)地質の予測が可能な地図のヒントを郡農業白書で得る。
そこにはバース近郊の土壌と植生が図示してある。
・森、草原、牧草地を色分けしてある。
・赤土や石炭脈の露頭が図示。
・そこから地下にどんな地層があるかを推定させる。
スミスはこれから地質図を作ろうと考える。それも自分がよく知っているバースとその周辺に適用してみる。
バースの地図を入手。
ノートの情報を地図に書き写す(化石、地層、地層の走向傾斜)
1799 サマセットのバース周辺の地層分布を記した世界最初の地質図を作成、
サマセットのバースの位置
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/27/Somerset_UK_location_map.svg
バース付近の地質(英国地質調査所デジタル地質図から抜き出す)
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英国地質図へ向けて
1799.6.11 スミスとスミスの理解者、タウンゼンドとリチャードソンでスミスの考えをまとめる。
「バース近郊の地層の重なりとそこに含まれる化石、1799年以前に調査検証したもの」
23種の地層をリストアップ
チョーク(白亜)、・・・、石炭層
この理解者2人は司祭であるが地層の重なりや化石についてその価値を見出していた。司祭にもかかわらず、このような当時の宗教界には受け入れない考えをもつに至っていた。
前後するが、1799.6.5
スミスはサマセット炭鉱運河を解雇される。年収450ポンドの仕事が打ち切り。
以後、フルタイムの仕事につかなかった(つけなかった)。
排水技師、石切場評価、堤防強度調査、銅鉱山調査、バースの枯れた温泉調査、等々で成果をあげる。
現在で言えば、「スミス総合土木地質エンジニアリング」という感じ。
1806−1812年、悪夢のような期間で、ロンドンに移ってからの家の家賃はかさむなど、定職のなかったスミスはしばしば困窮した。さらに、スミスの地層の重なりの成果やバースの地質図が無断で使われたりした。
1807年に新設の地質学会には入会の誘いはなかった。意図的な排除であった。
1807年 クーム・ダウンの古い石切場を買い上質なバース・ストーンを切り出す計画をたてる。
1814年 石材切り出し始まるが、ワーテルローの戦い後、イギリスは戦後不況に陥り、スミスの事業は打ち切りになった。
1813年頃、ロンドン屈指の地図製作者が前触れもなく地質図出版の協力を申し出る。
1815年(46歳)には、彼がこれまでの仕事を通じて観察してきた事象の集大成でもあるイギリス本土全域(イングランド、ウェールズ及びスコットランドの一部)の本格的な地質図を完成させた。
縮尺:5マイルを1インチ、すなわち、1:32000である。横1m85cm、縦2m60cmになる。
1815.3 リヴァプール首相が閲覧
1815.5 学術協会から送金
1815.8 公に出版、400部印刷
題
イングランドとウェールズ、およびスコットランドの一部の地層の描写図
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炭鉱と鉱山、かつて海の氾濫によって生じた沼地と沼沢低地、および土壌の種類を地下層の変化に応じて図示し、わかりやすい名称を添えた。
様々な地層区分の分布が、手作業で色分け(これは当時画期的なことだった)されていた。
スミスの英国地質図
1815 スミスが作成したイングランドとウェールズの着色地質図(ウィキペディアより)。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/98/Geological_map_Britain_William_Smith_1815.jpg
1819 地質学会が同様の地質図を印刷。
スミスの友人たちが地質学会の剽窃を責めたところ次のような釈明があった。
「二つの地質図は多くの点で同一だが、一方が他方を写したのでなく、双方とも正確だったということ。同じ主題に取り組めば結果が似たようになるのは自然である」
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困窮や屈辱
1807年に発足したばかりのロンドン地質学協会は下層階級の出身であるスミスの入会を認めなかったばかりか、彼の集めたデータを盗用して別の地質図を作る者までいた。
地質図は完成したが、石材事業の破産、住居の借金、親戚の少年養育などでスミスはますます困窮する。
1818年 借金返済のため、長年かけて集めた標本2657点を大英博物館に売り渡した。
それでも依然として、請求書の未払い、遅れている借金返済、未収の税金があった。
1819.6.11 ロンドンのキングズベンチ債務者監獄に収監
1819.8.31 早朝釈放、50歳だった。
ロンドンをさろうと決心した。そして、ヨークシャーの小さな町ノーサラトンに引きこもった。
ヨークシャー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC
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地質学の父と称賛
1820年代後半になるとようやくスミスは正当に評価されるようになった。
1828年、ウォラストンが亡くなる2週間前に地質学会に寄付。その基金で賞を設ける。
ウォラストンはパラジウムを発見するなど化学で業績がある。ウォラストナイト(珪灰石)は彼の名にちなむ。
ウィリアム・ハイド・ウォラストン
(1766-1828)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/06/William_Hyde_Wollaston.jpg
(ウィキペディアより)
1831年にウォラストン・メダルの第1回受賞者にウィリアム・スミスがふさわしいとなる。
「英国地質学の父」と称えられた。
1832年に正式にメダルを受ける。
政府も動き、年100ポンドの終身年金をスミスはうける。
アイルランドからの顕彰
1837年英国学術協会の会合がアイルランドのダブリントリニティカレッジで行われた。
ダブリントリニティカレッジの学長と教授会の決定でスミスに名誉博士号が贈られる。
「英国地質学の父」が英国の大学でなくアイルランドの最高学府から栄誉を授かった。
トリニティカレッジ正面
(1837年) ウィキペディアより
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b9/DUBLIN%281837%29_p041_TRINITY_COLLEGE.jpg
最晩年
1838年、英国国会の場であるウェストミンスター寺院を新築するにあたり、用いる石材を決定する委員会が説立された。スミスはそのメンバーとなる。
同年8月-9月 石切り場を視察し、報告書のリストには100以上の石切場があげられている。
1839年、スミスはバーミンガムで英国学術協会の会合のためにバーミンガムへ出かけた。その帰りに肺炎を患い、ノーサンプトンの友人の家で亡くなった。
付録:英国の地質概略