事例紹介:
南極の調査
序 南極と北極
1 南極の概略
2
南極点をめざして(1911〜12年)
3
日本の南極観測隊(1956年〜)
4
北極探検と北極の科学研究
付録(5南極地質概略,6セールロンダーネ山地の地質調査,7南極隕石)
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長く未知だったが,19世紀半ばになり南極大陸を確認
1911年,南極点にアムンセン隊が到達
南極観測でオゾンホール発見,フロンの規制につながる
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本文中の小問をはじめにまとめる。
問い1
1911年から12年にかけて南極をめざす探検が相次いだ。人類史上初めて南極点到達した隊の隊長は誰か。どこの国か。
(回答例を2まとめの下に記す) 回答へ → リンク
問い2
日本の南極観測船の中で引退後名古屋港に係留されている船の名前は何か。
(回答例を3まとめの下に記す) 回答へ → リンク
問い3
日本の南極観測隊はオゾンホールを発見,その結果,地表で紫外線が多くなることが懸念される。オゾンホールの原因は何か。
(回答例を3まとめの下に記す) 回答へ → リンク
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序 南極と北極
地球の南と北のはじが南極と北極である。夏は太陽が沈まず,冬は太陽が顔を出さない,オーロラが出現するなど,極地方の特徴は共通する。しかしながら,北極は海で南極は大陸であるなど違いがある。
(1)極
極(地軸極)は自転軸が地表面とまじわるところ。北極と南極。
南極圏と北極圏は一日中太陽が出ない,出続ける緯度領域。66°33’である。
磁極(Magnetic pole)は,方位磁石が指す。磁石は真下を向く。
地磁気極(磁軸極)は Gemagnetic pole,地球の中心を通る棒磁石(双極子)を考え,その軸と地表が交わる点。
(2)大陸と海
南極は中心が大陸で周りに海が広がっている。北極は,中心が海で周りを大陸が取り囲んでいる。
(3)
昼と夜
南極点と北極点では一日中太陽は同じ高度で水平線に平行に回っている。春分や秋分の日には,水平線をギリギリに周る。
例えば,1月には南極は白夜で北極は極夜である。
(4)どんな動物がいるのか
北極にはシロクマ,南極にはペンギン。
(5)領土
南極には各国の基地があるが,どこかの国の領土ではない。南極条約で資源開発や軍事基地をつくらないとしている。
北極(圏)にはいろんな国があり領土や領海を持っている。
参考資料 朝日新聞デジタル 南極と北極
→ https://www.asahi.com/eco/polar/
1.南極概略
探検略史:南極大陸は,ギリシャ時代から未知の大陸として想像されていたが,7世紀になると南に行くと氷が流れてくることで大陸が現実味を帯びてきた。15世紀から大航海時代となり,各国が南極大陸を求め,1820年に陸地を実際に見ることができた。19世紀末から20世紀前半初めにかけて南極探検が試みられ,南極点到達を競った。
地形概略:南極大陸Antarcticaは,地球の最も南にあり,南極点を含む大陸で,面積約1230万平方km余,日本の30倍以上の大陸。大半は大陸氷床に覆われるが,海岸部や内陸山地に露岩域(ろがんいき,岩石が現れているところ)があり,地質構造を知ることができる。おおむね30度−150度の経線に沿う南極横断山脈(Trans
Antarctic Mountains)が地形的・地質的な境界となり,東南極と西南極に分ける。
南極大陸の地図(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/Antarctica.svg
東南極(East Antarctica)と西南極(West Antarctica)に分けられ,その境界は南極横断山脈(Trans Antarctic Mountains)である。
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南極大陸発見までと英雄の時代(ウィキペディアから抜粋)
ギリシャのプトレマイオスが描いた地図に「未知の南の大陸」が記され,ギリシャ時代に南極大陸の可能性が指摘されていた。
7世紀にポロネシア人が,暴風雨でカヌーが流され氷の浮かぶ海に達したという記録がある。15世紀の航海時代に入り,未知の海域であった南半球への航海が活発に行われるようになる。なかなか大陸を確認することはできなかったが,1820年になって,ロシア海軍のべリングスハウゼン,英国海軍のブランスフィールド,米国アザラシ漁師のパーマーがあいついで南極大陸を発見する。
19世紀末から20世紀はじめの1917年ごろまで,10か国,17の南極探検隊が極点をめざし競った。当時は,まだ輸送手段や通信技術が整わない頃で,体力と精神力の限界の中,南極におもむいた。彼らは探検家であるとともに国の英雄でもあった。そこでそのころを南極探検の英雄時代とされている。
流氷に閉じ込められるエンデュランス号(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b7/Endurance_trapped_in_pack_ice.jpg
1914年シャクルトン率いる英国探検隊は氷に閉じこめられ漂流する。
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1のまとめ
南極大陸は,地球の最も南にあり,面積は,日本の30倍以上ある。大きく東南極と西南極にわけられ,その境界は南極横断山脈である。1820年,この大陸が実際に確認された。
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2.南極を目ざして(1911〜12年) Towards
South pole (1911-12)
「1911年から1912年のシーズン(南極の夏の時期)にノルウェーのアムンセンと英国のスコットが南極点一番乗りの競争を行っていた。同じころ,日本の白瀬隊も南極で行動していたことは特記でる。結局アムンセンが人類史上初の極点到達をはたした。」
3人の概略:
ロアール・アムンセン(Roald Engelbregt Gravning Amundsen, 1872.7.16 - 1928.6.18)
ノルウェーの探検家。主に極地に挑んだ探検家として知られる。ロバート・スコットと南極点到達を競い,1911年12月14日には人類史上初めて南極点への到達に成功。
極地探検歴
1897 ベルジカ号(ベルギー)に乗り組み南極海で初の越冬。
1903 北磁極に到達。
1905 ベーリング海峡をめざして太平洋にぬけ,北西航路を開拓。
1911 ホエールズ湾に上陸,そして南極点到達。
1926 飛行船で北極点通過。
ロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott, 1868.6.6 - 1912.3.29)
イギリスの海軍軍人,探検家。南極探検家として知られ,1912年に南極点到達を果たすが,帰途遭難し死亡した。
主な極地探検歴
1901-04 英国南極探検隊長としてロス海へ行く。エドワード七世ランドを発見。
1902 シャックルトンなどと犬ぞりで南極点をめざし,南緯82度17分で引き返す。
1902 内陸氷原調査,ドライバレーを発見する。
1911 ロス島基地出発。
1912 南極点に到達するが帰途亡くなる。
白瀬 矗(しらせ のぶ (Nobu Shirase, 文久元年6月13, 1861.7.20 - 昭和21年9月4日, 1946.9.4)
日本の陸軍軍人,南極探検家。最終階級は陸軍輜重(しちょう)兵中尉。幼名は知教(ちきょう)。
探検歴は別項で詳述。
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南極点をめざして
アムンセン:1911年12月14日南極点到着そして無事基地に戻る
スコット:1912年1月17日南極点到着,帰路死亡。
白瀬:1912年1月28日南緯80°5',西経156°37'で引き返す
氷海のフラム号(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Amundsen-Fram.jpg
フラム号は,1893年から1896年,ナンセンによる北極海遠征に使われ,アムンセンの南極遠征でも活躍した。
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アムンセン隊とスコット隊の装備や行動
アムンセン隊
あらかじめ食料や燃料の追加分(デポ)を南緯82度まで用意していた。
移動手段は,グリーンランドなどの経験から犬ぞりを用い,スキーも利用した。
行動開始を早めにして天候が悪くなる前に帰還した。
10月19日出発,12月14日―17日南極点,1月25日基地帰還,1月26日フラム号入港
アムンセン隊極点旅行途上(ウィキペディア)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/36/Aan_de_Zuidpool_-_p1913-141.jpg
アムンセン隊南極点到達(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3e/Amundsen_Expedition_at_South_Pole.jpg
スコット隊
食料の追加分(デポ)は1トンデポで南緯79度29分に置く。
移動は馬ぞりと犬ぞり,主体を馬にして犬ぞりを軽視した。
移動は結局徒歩となった。雪上車を導入したが故障で放棄する。
行動はやや遅く11月1日に出発,馬はかなりはじめに死に絶えた。また,犬を帰してしまう。12月11日から徒歩でそりを引く。1月17日南極点に到達するが,帰路遭難,3月29日までに全員死亡。10月に遺体確認。
スコット隊南極点にて(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6b/Scottgroup.jpg
この後の帰路で全員遭難死。
両隊の構成や準備の比較
デポ(食料などをあらかじめコースに用意すること)は,アムンゼン隊の方がより南に(極点近くに)用意。
移動手段は,アムンセン隊は犬ぞり,スコット隊は馬ぞりを採用。
隊の構成は,アムンセン隊が小数精鋭だが,スコット隊は大人数であった。
リーダーシップ
スコットは,軍隊式の上意下達,英国軍人としての誇りがあった。
アムンセンは,チームワーク重視,やる気と創意工夫を生み出し,周到に準備した。
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問題1
1911年から12年にかけて南極をめざす探検が相次いだ。人類史上初めて南極点到達した隊の隊長は誰か。どこの国か。
回答例は2まとめの下に記す。
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白瀬隊の健闘
白瀬矗(しらせのぶ)は,南極点にこそ至らなかったが,明治末のまだ日本の国力が十分でない頃に,南極大陸に足を踏み入れた。彼の自序伝から彼の生い立ちや南極大陸での行動を紹介する。
参考文献:
白瀬 矗 人間の記録61「私の南極探検記」,日本図書センターpp.298,1998年.
井上正金 極地研ライブラリー 「日本南極探検隊長 白瀬 矗」,成山堂書店 pp154,2012年.
白瀬 矗 Shirase Nobu
出生から陸軍入団と千島探検
1861.7 出生(秋田県にかほ市)
キツネを捕まえようとしてケガをするなど,腕白であった。天然痘にかかるが,寺の墓地の餅を食べて全快したと自序伝にある。
16歳の時東京に出る。山野に伏せるなどして秋田から東京まで10日かけた。東本願寺派の学校に入る。禁足を受けている間に軍隊に志願し,日比谷の教導団に入る。
1879 陸軍入団(日比谷教導団,その後仙台鎮台)
明治23年秋の仙台第二師団機動演習中に,視察にきた児玉源太郎将軍と会い,北極探検をしたいと話す。将軍はその前に千島や樺太で鍛錬と経験を積むようよう勧める。
1893-1895 千島探検
明治26年,郡司大尉の千島遠征に加わる。千島列島を北に向かい,シャスコタン(捨子古丹)に9名の越年者をとどめ,さらに列島北端のシムシュ(占守)島に渡る。8月31日であったが酷烈な寒気であった。アザラシ狩りやクマ狩りを行って冬を越す。明治27年になり郡司大尉ほかは内地へ帰港,交代の5名とともに越年に入る。氷結した海をわたりカムチャッカ半島に至るなどした。
千島列島(英文名,ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/50/Demis-kurils-russian_names.png
郡司成忠(ぐんじなりただ,1860-1924) 海軍大尉 北千島の探検・開発に尽力 ウィキペディアより
Gunji_Shigetada.jpg
(429×657) (wikimedia.org)
郡司千島探検出航(1893.3.20)の錦絵 ウィキペディアより
Ukiyoe_where_Shigetada_Gunji_was_drawn.jpg
(854×441) (wikimedia.org)
1904-06 日露戦争従軍
遼東を転戦,敵弾に右手をえぐられるなどしたが命はとどめる。明治38年に中尉となる。満州軍総参謀長は児玉将軍であったが,戦争終了後,逝去。
南極探検を決意
1909 南極行きを決断
明治42年に米国のペアリーが北極を踏破の報を得て,南極探検を決意した。
大隈重信伯,乃木将軍をはじめ多くの賛同者から応援を得て準備にかかる。経費の都合もあり船は200トン級とした。第二報効丸を南極探検の航海船として入手した。東郷元帥が「開南丸」と命名。
開南丸(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a6/Kainan-Maru.JPG
南極探検隊員は白瀬矗隊長はじめ9名,船員は野村直吉船長はじめ18名。
1910.11.29 開南丸で日本を出発
12.29 赤道通過,
1911.2.8-10 ウエリントン寄港,石炭,飲料水,食料の補充。
2.11 ウエリントン出帆。
2.28 氷山遭遇。夜オーロラ認める。
3.6 南極大陸遠望。南ヴィクトリアランドのアドミラルティー山脈やサビネ山などの高峰を見る。
その後,船は上陸可能なところを求め航行するが,氷状悪化と天候悪化で断念する。
3.15再挙を期し方向転換,シドニーへ。
4.30オーストラリア東海岸を見る。
1911.5 オーストラリア・シドニー入港
5.1 シドニー港に投錨。
5.16シドニーミルストホルン公園の片隅に野営小屋を設け,そこで生活。
当初,オーストラリア人からは密漁に来た者と思われ,歓迎されなかった。
シドニー大学デビット教授からの賛辞を得て英雄として扱われるようになる
10.18 一時帰国していた野村船長が,再挙用の糧食や準備品を携え戻る。
11.16 多田書記長は新たな隊員と犬を率いて来る。
1911.11シドニー発
11.19 シドニー港出帆。
12.11 氷山視認。
1912.1.3 陸地視認,サビネ山確認。
4名が氷河に上陸し予察踏査。
鯨湾でノルウェー隊のフラム号を認める。
三分隊に分かれ氷提に上陸,一旦船にもどる。
1.17-18荷物陸揚げ,この間にフラム号から2名来訪,開南丸が小型なことに驚く。
1.19 本格的な上陸。突進隊,沿岸隊,根拠地観測隊に分かれる。
沿岸隊の行動
1912.1.19 陸上隊員7名を根拠地に残し開南丸はエドワード七世ランドに向け出航。
1.23 開南丸投錨。調査隊は2隊に分かれ行動。皇帝ペンギンの観察などを行う。
1.24 氷壁登攀を行うなどしてアレキサンドリア山脈の露岩を目指すが,幅4m,深さ15mの亀裂が山腹一帯に走り前進を断念。
1.24 2230開南丸に帰船。総行程60q,所要時間39時間であった。
1.24 2400開南丸,出航。
1.26 1200 南緯76°05′,西経151°20′の位置で船首を返し拠点へ。
2.3 突進隊と根拠地の隊員が合流。
突進隊の行動
1912.1 ホエールズ湾着,突進隊南に向かう
1.20 多くの者が雪眼,完治しないが突進決行。
犬ぞりは前隊が15頭引き,後隊は13頭引きで荷物を運ぶ。
1.21大吹雪,全身困難で幕営。
1.22曇り,前日の雪もあり歩行は困難。荷物一部をデポして犬ぞりの負担を少なくする。
1.23途中から吹雪,視界効かなくなる。
1.24曇り,前進。
1.25大風雪。後隊進路を見失う。前隊の犬の糞を頼りに前隊と合流。
1.26吹雪,天気の回復を待ち前進。
1.27曇り,前進を強行。
1.28曇り,前日から前進,0時30分,幕営。ここが最終地点。
1912.1.28 S80°5'到達,ここから引返すこととなる。
帰路に就く。犬疲労で病犬が多くなる。ただ,帰りの進行は早い。
霧が濃く,根拠地(ベースキャンプ)へのルートがはっきりしない。
1.31 霧が晴れ,根拠地の小屋を遠くに見出す。
小屋到着,根拠地での観測隊と邂逅(かいこう)。
2.3 沖にいる開南丸に合図,確認とれる。
2.4 乗船開始,帰路に就く。
白瀬隊最終到達地点(ウィキペディア)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/22/Yamato_Snowfield.JPG
1912.2 ホエールズ湾出発
1912.6 海南丸帰着
6.21 大隈邸にて帰朝報告会
6.25 (明治45年)当時の皇太子殿下ほか皇族の御前にて南極探検活動写真を天覧(てんらん)。
大隈重信候と白瀬中尉
https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/19/data/37/001.html
後半生は,負債返済のため各地で講演の行脚(あんぎゃ)となる。
講演する白瀬(1939),本の万華鏡より
https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/19/data/42/001.html
1921-1924千島(農商務省嘱託)
1927 アムンセンと東京藤倉山のノルウェー代理公使邸で会見
1933 日本極地研究会創立
1935 借財を片付ける。
晩年
1940 文化功労者として表彰される
1942 埼玉県北足立郡片山村に住む。「私の南極探検記」を出版。
1944 「南極と北極」を出版。生家の金浦の浄蓮寺に疎開。
1945 終戦。金浦から埼玉県片山村の自宅に引き揚げる。
1946.5 武子母子が中国から引き揚げる。
1946.6武子母子とともに京都の太奏へ。マッカーサー元帥あてに「大和雪原」が日本の領土であるとの書簡を送る。
1946.8.19 武子の長男河口潮を頼り愛知県挙母町大字挙母字天神72(現在の豊田市神明町2丁目)の「魚十」分店,鈴木明治宅へ移る。
1946.9.4 腸閉塞で死去(85歳),訪ねる弔問客は少なく寂しい葬儀であった。
南極探検隊長 大和雪原開拓者の墓 (愛知県西尾市吉良町西林寺)
The_grave_of_Shirase_Nobu.jpg
(832×624) (wikimedia.org)
ウィキペディアより
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2のまとめ
1911年から1912年のシーズン(南極の夏の時期)に英国のスコットとノルウェーのアムンセンが南極点一番乗りの競争を行っていた。アムンセン隊が1911年12月14日―17日南極点に滞在し,翌1912年1月25日基地帰還した。人類史上初の極点到達である。スコット隊は1912年1月17日南極点到達するも帰路遭難し,3月29日までに全員死亡。アムンセン隊は犬ぞりを使用,スコット隊は馬を使用。アムンセン隊は,本番前に帰路の食料など途中に準備するなど入念な準備を行っていた。
同じころ,日本の白瀬隊も南極で行動していた。白瀬隊も南極点をめざしたが,南緯80度5分で断念,帰路についた。
問い1の回答
回答例 ロアール・アムンセン(Roald Engelbregt Gravning Amundsen),ノルウェー
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3. 日本の南極観測事業(1956年〜) Japanese Antarctica Research Expedition
(1956-)
戦後の地球観測年にあわせ,日本は南極観測を組織した。1957年に昭和基地を開設し,越冬を行う。それから現在まで,南極での研究観測が続けられて,地球環境の変化を知るのに役立っている。プレハブ住宅など南極で開発された技術が生活の一部になっている。
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日本の観測船や基地の変遷
1956 「宗谷」を南極観測船に改造,第1次隊出発。
1957 「昭和基地」開設,越冬隊成立。
1958 越冬断念,犬を放置
1959 タロ・ジロ生存確認,越冬再開
1962 昭和基地閉鎖
1966 新観測船「ふじ」,昭和基地再開,越冬
1970 「みずほ基地」開設
1984 新観測船「しらせ」南極へ
1985 「あすか基地」開設
1994 「ドームふじ基地」開設
2009 新観測船「しらせ」(2代)南極へ
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初期の日本の南極観測隊
1957 日本南極観測隊,昭和基地開設
上陸式
第1次南極観測隊越冬略記
・現地に行くまで越冬を行うかは決定していなかった。
・越冬は西堀栄三郎を隊長とする11名で行う。
・雪上車は整備に困難を極め長距離の行動が不可能であった。
・そこで調査旅行には,犬ぞりが利用された。(カラフト犬)
・次年度,天候や氷の状態が悪く,船が近づけず,2次隊越冬を断念。
・かろうじて第1次隊員収容し,最低限の資料を持ちかえる。
・犬の多くを収容できず基地に残す。
犬ぞり(菊池徹,地質ニュース No.46,
1958より)
犬ぞりによるボツンヌーテン調査
昭和基地から170km奥地にあるボツンヌーテンへ犬ぞりで向かう。
ボツンヌーテン初登頂,1次隊の快挙である。
1次隊以後,40年近くたった34次隊まで当地に足を踏み入れることはなかった。
陸路で往復したのは1次隊だけである。
置き去りにされた犬のうちタロとジロが生存
2次隊越冬断念で犬を置き去りしたが,次のシーズンに第3次隊が上陸すると,2匹が生きていた。
参考 47次隊のボツンヌーテン調査記(モンベル南極通信より)
http://about.montbell.jp/common/system/information/disp.php?c=8&id=78
最初の写真の4峰の右端は「犬山」と命名されている。
犬山市とは無縁で,1次隊が犬ぞりに敬意を表したことにちなむ。
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観測船「宗谷」の遍歴 -- 強運,タフ,長生きの船
1938 ソ連が耐氷型貨物船発注,完成遅れ,日本の船となる
海軍の船となり「宗谷」と命名,
北樺太調査,サイパンで測量・観測
1941.12 太平洋戦争
ミッドウェー作戦,ガダルカナル島の戦いに参加,被害なし
1944.2.17 トラック島で座礁,総員退艦,2日後満潮で浮き上がり回復
1945.8.15 北海道で終戦
戦後,外地の帰還兵を乗せて帰る引き揚げ船や灯台補給船として活躍
1956 南極観測船に(第1次隊)
1962 第6次隊で昭和基地閉鎖,宗谷の南極任務終了
海上保安庁の巡視船,教育船として
1978.5 引退,「サヨナラ航海」
現在 船の科学館に係留
宗谷(2次隊のころ),ウィキペディアより
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/6/65/Soyapl107.png
船の科学館の宗谷 Soya in Ship Museum
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f1/So-ya.jpg
観測船の変遷
宗谷は海上保安庁が運航した。
その後は海上自衛隊が運航し,ふじ,しらせ(初代),しらせと続く。
名古屋港に係留されている「ふじ」(ウィキペディア)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d5/Antarctic_Museum_Fuji.jpg
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日本の南極基地
昭和基地
位置:東オングル島にある(S 69 00 22, E 39 35 24)。標高29.18m。
施設:天体,気象,地球科学,生物学の観測を行う施設がある。
施設は大小60以上の棟からなる。管理棟,居住棟,発電 棟,汚水処理棟,各種研究棟など。
隊員:南極地域観測隊員は約70名,そのうち約30名が越冬する。
南極観測船:海上自衛隊が運航。ただし初代観測船の宗谷は海上保安庁が運航
医療体制:医師2名が派遣。
通信・郵便:通信は無線(海底ケーブルではない)。郵便局があり日本郵便銀座郵便局昭和基地内分室である。日本および南極への配送は越冬隊が帰還する際の年1回のみ。
昭和基地(国立極地研究所HP)
https://www.nipr.ac.jp/antarctic/jarestations/#showa
この中に昭和基地見学の動画あり(約10分)
そのほかの基地
みずほ基地
位置:S 70 41, E 44 19. 標高2230m。昭和基地から南東270km, みずほ高原の氷原。
現在は無人基地,無人の気象観測,旅行の中継基地としての役割。
ドームふじ基地
位置:S 77 19, E 39 42, 標高3810m。昭和基地の南約1000km。
1995〜1997年,地球環境変化究明のため,2500mの氷床コア掘削を行う。
あすか基地
開設と位置:1985年開設。S 71 31, E 24 04 17, 標高930.5m.
アクセス:昭和基地からは670kmだが,観測船しらせが進入するブライド湾からは155km。
1987年から1992年まで越冬観測を行った。
あすか基地設立経緯:昭和基地から西南西600kmほどにセールロンダーネ山地という,四国ほどの面積にわたる露岩域がある。1985年時点で1960年頃のベルギーの調査以後,本格的調査は行われていなかった。この山地は昭和基地から遠いため,本格的調査のためには,山地近くに拠点(基地)が必要であった。
各国の南極基地
南極の基地一覧(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/77/Antarctica_Station_Map.png
南極にはいろいろな国の基地がある。上に述べたように,日本の基地は,昭和,みずほ,あすか,ドームふじである。
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日本の南極観測の歴史と成果要約
1956〜(宗谷)
1次隊 出発,昭和基地開設
4次隊 やまと山脈初調査
6次隊で南極観測休止,昭和基地閉鎖
1965〜(ふじ)
7次隊昭和基地再開
9次隊 南極点到達
11次隊 みずほ基地開設
20次隊 隕石3000個採集
24次隊 オゾンホール発見
1983〜(しらせ,初代)
25次隊 二酸化炭素モニタリング開始
26次隊 あすか基地開設
35次隊 ドームふじ基地開設
37次隊 ドームふじ,深層掘削,深度2503mに達する
48次隊 ドームふじ,深層掘削,深度3035mに達する
2008
50次隊 オーストラリア観測船利用
2009〜(しらせ)
51次隊 新「しらせ」就航
最近の南極観測隊
・越冬隊30名ほど,夏隊40名ほど,同行者25名ほど
(コロナ下では基地維持と気象など定常観測に必要な人員だけに縮小している)
・基本観測,研究観測,設営,その他に大きく分けられる
・基本観測 例;気象観測,環境モニタリング
・研究観測 例;氷河調査,アイスコア,地学,生物
・設営 例;機械(例 電気,雪上車),通信,調理,医療
・その他 教育(小中高の先生),大学院生,報道
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南極観測隊が身近な生活にもたらしたもの
・生活面:プレハブ住宅,インスタントラーメン
・寒冷地への技術:砕氷船の技術,雪上車,低温装備
・環境問題:オゾンホール発見(次の項で詳述),二酸化炭素の増加(長期の観測)
インスタントラーメン
日本初のインスタントラーメンは日清食品「チキンラーメン」とされているが,その発売2年前,南極観測隊1次隊にインスタントラーメンが存在した。東明商行「長寿麺」である。
ただし,東明商行から特許をゆずりうけるなどした日清食品が”商業的に成功”し,「チキンラーメン」が日本初のインスタントラーメンとなっている。
参照ウェブ:ネタバレより https://netabare1.com/1432.html
問題2
日本の南極観測船の中で引退後名古屋港に係留されている船の名前は何か。
回答例は,3まとめの下に記す。
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日本の南極観測隊がオゾンホールを発見する
南極の地味な観測の積み重ねの中で,大気中のオゾンの減少が日本隊により発見された。オゾンの減少は有害な紫外線が多くなり生物に影響を与える。ハロゲン化炭化水素(例,フロン)の使用が原因とわかり,世界中でフロン類の利用に規制を行う。オゾンホールは徐々に回復している。
オゾンホール(ウィキペディア)
以下のオゾンホールに関する解説は次の文献による。
二宮洸三(2012)気象と地球の環境科学(改訂3版).オーム社,p.240.
南極や北極上空の成層圏のオゾン層における春期のオゾン濃度の減少。
最初の発見は昭和基地の観測データから(1983年報告)。
1987年,モントリオール議定書でオゾン層破壊物質の削減と廃止への道筋定まる。
5種類のフロン,3種類のハロンが対象。
1988年,日本でオゾン層保護法が制定,1989年7月よりフロン等の生産が規制。
フロンガス:炭素と水素,フッ素や塩素や臭素などのハロゲンを多く含む人工的なガス。1920年代に開発。燃えにくく化学的に安定,人には無害であることから,冷蔵庫やエアコンの冷媒として急速に使用が拡大した。1970年代になるとオゾン層の破壊が問題となり,その原因がフロンガスにあるとして,製造や輸入の禁止となる。
2003年,最大のオゾンホール発生。
2019年,1990年以降最小。
21世紀末には解決の見通し。
(以下のオゾンホールの説明は込み入るので省略してよい。上の太字の「オゾンホールの発見」で概要はわかる)
オゾン(O3)とは:
地球大気の微量成分の一つで大気の成層圏で最大となる。オゾン層は太陽放射の紫外線の多くを吸収する。太陽紫外線から地球の生物を保護する重要な役割を果たす。
ハロゲン化炭化水素:
炭化水素(例,メタンガスCH4)の水素の一部をフッ素,塩素,臭素などのハロゲン元素で置き換えた化合物をハロゲン化炭化水素と総称する。フッ素や塩素が置き換えたものをフロン,臭素を置き換えたものをハロンという。
はじめは冷蔵庫の冷媒として開発,その後,化学的熱的に安定で,夢の化学物質と呼ばれ,例えば,機械の洗浄噴霧,ヘアスプレーなどさまざま使われる。
オゾンホール発生原因:
フロン類が紫外線によって分解(破壊)され,生成した塩素ラジカルが触媒としてオゾンを破壊することによる。
なぜ南極か:
太陽が出ない極夜で極低温となり,微小の氷晶からなる極成層圏雲が発生する。気体では反応しない不活性塩素物質が氷晶表面を介して変化して塩素を放出する。塩素がオゾンと反応してオゾンは破壊する。
代表的な反応の例:
Cl+O3→ClO+O2
ClO+ClO+M→ClOOCl+M
ClOOCl+hv→Cl+ClOO
ClOO+M→Cl+O2+M
M: 反応によって生じた過剰のエネルギーを運び去る「第三」の気体分子。
ClOOCl: 酸化塩素二量体
O3を破壊するClが再び形成され,次々とO3と反応する。
太陽エネルギーhvが必要。そこで極夜が終わって(春に)この反応が起こる。
上と同じ内容だが,式に説明をつけて以下に解説,少しわかりやすくした。
フロンガスに紫外線があたる ↓ 塩素Cl発生 塩素Clは,オゾンO3を酸素原子Oと酸素分子O2に分解 (式:塩素Cl+オゾンO3→塩素と酸素ClO+酸素分子O2 ) ClO同士が一緒になり酸化塩素二量体ClOOClができる (式:ClO+ClO→ClOOCl) これに太陽エネルギーhvが加わって分解 (式:酸化塩素二量体ClOOCl+太陽エネルギーhv→Cl+ClOO) 気体Mが関与して,ClOOは塩素Clと酸素分子O2となる (式:ClOO+M→Cl+O2+M) オゾンO3を破壊する塩素Clがくりかえし形成,オゾン分解が続く |
くりかえし塩素Clが形成されるとオゾン破壊は永久に続くところだが辛うじて止まる。
それは,地球上の微生物が大気中に亜酸化窒素(N2O)を発生するからである。
・N2Oが成層圏に入り,NOx (NOやNO2)となる。
・NOxだけならオゾン破壊の触媒反応サイクルを作るところだが,ClOxと混じり硝酸塩素(ClONO2)となりオゾン破壊と無関係な物質となる。
人間のフロン ClOx ---→ [オゾン破壊] ↓
ClONO2 (オゾン破壊と無関係)
↑ NOx
↑
バクテリアのN2O |
オゾンホールがあるとどんな影響があるか。
・太陽からの紫外線が地表へ多量に到達するようになる。
・強度の紫外線は皮膚がんを誘発する。
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補足:オゾンホールと地球温暖化
フロン規制の結果,オゾンホールの解消は2060年頃とみられる。
もし,フロン規制が行われずにフロンが放出し続けられたら,2065年に地球全体で大気中のオゾン全量は100DU(matm-cm)に減る。
地上に降り注ぐ紫外線量が著しく増大する。中緯度の7月の条件で1980年の1000倍になる。がんのリスクは1.5倍になる。
フロン規制が行われ,この懸念は解消しつつある。
一方,オゾンが減ることでオゾンの放射が減り地球温暖化が抑えられていたという面もある。
オゾンホールが2060年に解消して1980年代の値になると東南極の温暖化が顕著になるという予想がある。
オゾン回復は,温室効果気体増加の影響をしのぐともいう。
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問3
日本の南極観測隊はオゾンホールを発見,その結果,地表で紫外線が多くなることが懸念される。オゾンホールの原因は何か。
回答例を3まとめの下に記す。
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3のまとめ
日本の南極観測事業は1956年から始まり,1957年に昭和基地が開設された。観測船は,宗谷,ふじ,しらせ,しらせ(2代目)と4代にわたり,基地もみずほ,あすか,ふじドームと増えた。
長年の成果として,オゾンホールの発見,二酸化炭素増加の観測など,地球環境問題に大きな貢献をしている。
問い2の回答例
ふじ
問い3の回答例
フロンガスの使用
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4 北極探検と北極の科学研究
南極の観測事業を説明してきたが,一方の極,北極をめざした探検や科学研究をここで挿入する。
15世紀,英国とオランダはアジアへ抜ける北方迂回の北極海を通る航路の開拓をめざした。
1893-96,フリチョフ・ナンセンは北極海横断と北極点到達をめざす。
1903-06,ロアール・アムンセンが北西航路を初通過した。
1909.4.6,ロバート・ピアリーが北極点到達。その真偽については疑問の点があるが,北極点周辺まで行ったとは言える。
ロバート・ピアリー ウィキペディアより
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e4/RobertPeary.jpg
1926,アムンセンは飛行船で北極点を通過した。
1930,アムンセンは航空機で北極点通過を試みた。帰路行方不明となる。
北極の科学研究
1882-83,国際極年(IPY)。12ヶ国で北極海を囲む観測(地球物理,気象,生物)を実施した。日本は直接加わらず,国内観測で協力する形。この機に日本で天気図が作られるようになった。
日本で最初の天気図 1883年3月1日(ウェザーニュースより)
https://weathernews.jp/s/topics/201802/270165/
1932-33,第2回国際極年(IGY-2)。日本では富士山頂の気象観測が始まる。
日本の北極での活動
1923,武富栄一(農商務省水産局監視船船長),ベーリング海峡を通り初の北極海入り。ただしこの前に海軍の活動があったが詳細不明。
1941,北南両極洋周航調査計画があった。北極海,ヨーロッパ,南大洋,そして日本に戻る計画だった。ドイツがソ連に侵攻で,計画は中止,ベーリング海峡手前で引き返した。
武富栄一船長の北南両極周航計画(北極圏人会)
https://arctica.jp/report/horizon-in-oblivion-1/
1957-60,中谷宇吉郎が毎年グリーンランドに赴き海氷や海水の観測を行う。
2011,「北極気候変動研究」プロジェクトで北極の研究が進む。
北極と南極では,温暖化の影響が見られる。北極では海氷域減少が著しい。その一方,南極では南極半島を除いてあまり温暖化進んでいない。この違いは何だろうか。
北極の環境変化
(1) 北極では温暖化が顕著である
・この100年間で2℃上昇。
・1970年頃から最近40‐50で,世界の平均の2‐3倍の速さで温暖化が進んでいる。
30年で40%減った北極の海氷(日経TECH 2008.03.19)
https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20080317/296434/
ホッキョクグマの住む場所,ますます限定(RIEF
2015‐3‐20)
(2) 北極温暖化増幅の仕組み
・北極には雪と氷があることが本質的,それらは太陽からの光を反射する。
・地表面(地面,海面)に雪や氷が広がると,日射を吸収しがたくなり,温まりにくい。
・温まらずに冷えるとさらに雪や氷が広がる。アルべドフィードバック(正)という。
・ところが地面が温まると氷が融け,日射を吸収し,温まる。さらに氷が融け,もっと温まる。
※この氷とアルべドフィードバック(負)が北極の温暖化増幅の最大の仕組みである。
(3) (2)以外の温暖化要因
・海氷が減り雲増加,すると雲の放射が温暖化に影響する。
・低緯度から湿潤暖気が流入し雲が活発にでき,大気そのものの放射を増大する。
・エアロゾルとくにブラックカーボン(すすなど)が白い雪面に落ちると表面を黒くする。日射を吸収しやすくする。そのもとは中緯度の工業地帯からである。
・雪氷微生物の粒もブラックカーボンと同じ働きをする。
北極圏に黒い氷。微生物の大量繁殖が原因(東京新聞,2016-05-07)。
(4) 北極温暖化の影響
・氷河・氷床の変動。
・陸上生態系の変化 ムラサキユキノシタが氷河後退で生息域が広がる。
https://www.picturethisai.com/ja/wiki/Saxifraga_oppositifolia.html
ムラサキユキノシタ(植物の百科事典)
・凍土が融け,メタンガス放出。
・海洋生態系の変化と海洋酸性化。
回遊性の魚(タラ,マス),アザラシ,クジラ,海鳥が北極海に生息するようになった。
酸性化で殻を作りにくくなる。
(5) とくにわが国への影響
・北極で海氷が減少し,低気圧の経路が変わり,シベリア高気圧が強まる。その結果,わが国は寒い冬となり豪雪になる。
・海氷減少で流氷が来なくなる。
・北極海航路が実現する。
日本‐欧州間は,スエズ運河を経由するより30-40%短い距離となる。
https://financial.jiji.com/magazine_bk/back_number.html?number=155
青い北極圏(時事通信社2021.5.25)
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5.南極の地質
・東南極楯状地
先カンブリア時代の岩石からなる。25億年前以前の始生代(または太古代)の岩石は,エンダービーランドのナピアNapier岩体に知られている。昭和基地があるプリンスオラフ海岸一帯には原生代後期から古生代初期に変動を受けた岩石が多い。
・南極横断山脈
古生代早期(5〜4億年前)のロス造山運動の後,その上に古生代後期〜中生代の地層が堆積した地帯である。
・西南極
アンデス山脈に続く中生代後期〜新生代の造山帯であるが,原生代の地層が存在する地域もある。
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6.セールロンダーネ山地の地質調査
セールロンダーネ山地
1937年にノルウェーのLars Christensen調査隊が発見し,ノルウェーの国立公園にもなっているロンダーネ山地から命名されたもので「南のロンダーネ」を意味する。
昭和基地の西方約600キロメートルの南緯72度5分,東経25度付近に位置する四国ほどの面積の山地で,標高1,000メートルから3,000メートル級の山が連なる。山地は6−5億年前にゴンドワナ大陸の衝突によって形成されたと考えられている。 南極にあって数少ない露岩地区であり,近年も日本の南極観測隊が複数回の地学調査を行なっている。
6シーズンにわたる調査から10万分の1縮尺で4区画にわけ地質図が作られた。全体で四国くらいの面積になる。
http://y95480.g1.xrea.com/sorrondigest.htm
セールロンダーネ山地地質図
作成された地質図4葉を編集・単純化したもの。
青地は氷河。氷河から飛び出た山地の地質が示されている。ほぼ四国の面積になる。原生代から前期古生代の変成岩(片麻岩類)と前期古生代の花こう岩からなる。
セールロンダーネ山地地質調査計画,2007-2010年,極地研究所
1984-1991年の調査をもとにあらたな調査が2007-2010年に行われる。エンダービーランド全体像を得るための調査である。
http://polaris.nipr.ac.jp/~geology/sorrondane/sorrondane.html
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事前訓練や設営など
1984-1991年の調査のうち,2シーズン(1986-87年,1990-91年の夏期間)の行動記録を記す。
当時は砕氷艦「しらせ」で南極大陸に向かった。越冬隊も夏隊も東京晴海を出航して赤道を越え,オーストラリアパースに立ち寄りよる。そこで食料や燃料補給後,南極におもむく。第28次隊夏隊(1986-87年)は,往復船の最後の隊であった。
現在は空路利用で現地入りして調査するようになっている。
事前訓練
冬山訓練:乗鞍岳で行う。山スキー訓練,幕営訓練,冬山レスキュー訓練,滑落訓練などの野外訓練のほか,小屋では講話がある。例えば,28次隊訓練では小堺秀雄氏から講話があった。秀雄氏はすし職人でタレント小堺一樹のお父さんである。秀雄氏は,9次と15次で越冬している。
夏訓練:隊員が正式に決定した直後に菅平で合宿。隊員同士の結束を高める。主に講義で,午後にはサッカーなどを行う。講義では,その隊の概要説明,事故例とその対処結果,救急法実習などがある。
その他の訓練:
・雪上車訓練を新潟の海岸で行った。雪上車製造の大原鉄工所が近くにあるからである。夏なので,海水パンツで雪上車を起伏のある砂浜を操縦する。一息入れて海水浴。
・地学隊では,日高山脈で南極の岩石に近い片麻岩などの調査法を学ぶ。
・そのほか,現地で各自に課せられている分野の訓練に赴く。あすか基地建設補助のため,地学隊の中にはミサワホームに赴いた者もいた。自分は国土地理院で天測訓練を行った。国内では天測を行うことがあまりないので,地理院から派遣される隊員も久しぶりの天測で,地理院ベテランから一緒に学ぶ。
専門の地学に関しては国立極地研究所で勉強会を何度か行い,前次隊からのひきつぎなどを行う。そのほかの準備を行って出航日を迎える。
現地行動
出航 東京晴海ふ頭
氷海中のしらせ
氷海を進む (しらせ艦橋より)
雪上車による物資輸送
28次隊ではあすか基地開設を最優先であった。30マイルポイントから物資をあすか基地へ運ぶ。
物資輸送の際,遠くからの目標物となったロムナイス山(花こう岩からなる)
ブライド湾,30マイルポイント,あすか基地,セールロンダーネ山地の位置関係 南極資料31(3)から転載
ブライド湾(図の上の湾)にしらせが投錨し,そこからヘリコプターで物資が30マイル(30’ pt)へ運ばれた。
30マイル地点から雪上車がそりを引いて物資をあすか基地へ運んだ。あすか基地そばのロムナイス山が良い目標となった。
現地調査
28次隊の行動記録 南極資料31(3)から転載
基地から雪上車とスノーモービルで移動し,ベースキャンプを設ける。A,B,Cがベースキャンプ位置。ベースキャンプからスノーモービルで山地に向かい調査を行った。28次隊は南極経験者がいないのでクレバスの危険がないルートを選んで調査が行われた。あすか基地が開設したため,救急医療などのバックアップ体制ができていた。
31次隊の行動記録 南極資料34(3)から転載
それまで5シーズンの陸路調査の総括と補足調査のため民間ヘリで移動する。
1地点に2泊程度のキャンプ。これで全域の地質図が完成する。
現場のようす
スノーモービルで山地の調査
地質調査
植生がないため全面露頭でかつ新鮮な岩石を採取できる。
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調査中の食料
糧食(4日レーション)
野外行動中の食料は,4日を単位とした。
A
(朝)ラーメン,もち,鶏肉,乾燥野菜,肉缶詰,漬物
(昼)食パン,ビーフシチューパック,コンビーフ,缶ジュース
(夕)米,即席スープ,牛肉,野菜,ちりめん山椒,漬物
B
(朝)米,みそ汁,塩じゃけ,なめ茸,漬物
(昼)食パン,焼肉パック,缶スープ,缶ジュース
(夕)米,即席みそ汁,豚肉,野菜,卵,たらこ,漬物
C
(朝)調理焼きそば,もち,ベーコンかウインナー,乾燥野菜,卵,缶スープ,漬物
(昼)食パン,ビーフカレーパック,ポテトサラダ缶,缶ジュース
(夕)米,即席スープ,牛肉,野菜,フルーツ缶,漬物
D
(朝)米,みそ汁,魚缶詰,納豆か味付のり,漬物
(昼)食パン,ハンバーグパック,缶スープ,缶ジュース
(夕)米,即席みそ汁,うなぎ蒲焼,えびのチリソース煮,辛子めんたい,漬物
これらが日数分まとめてあるので,組合せを変えるなどして調理。
調査はスノーモービルや徒歩の移動なので,昼食ではフジパンからの寄贈品のバターロールがかさばらず重宝した。凍結せずそのまま食べることができた。飲物は缶コーヒーなので,シャツの下にはさみ体温で凍結を防止した。
参考:白瀬矗突進隊の食料
(主食類)重焼パン,ビスケット
(副食類)牛肉,鶏肉,魚せんべい,さざえ,小鮎,あわび,えび,鯛デンプ,ハム,チーズ,乾のり,松茸,しめじ,とろろ昆布,ミルク,おたふく豆,コンペイ糖,角砂糖,焼塩,こしょう,パイナップル,きんかん,茶,味の素,醤油
(犬食料)にしん
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7.南極隕石 Meteorite
隕石は,惑星間の小さな固体物質の天体が地球に突入し,燃えつきずに地表に落下したもの。金属鉄と岩石の割合により,鉄隕石,石質隕石,石質隕鉄に分類される。地上で入手できる地球外物質で,太陽系の起源や進化を調べる重要な試料である。
隕石は南極の調査と関係なさそうだが,世界の隕石総量の大部分は南極の氷原から発見採取されている。当初は地質調査の過程で発見されることが多かった。隕石を主にした調査では,野外行動になれた地質隊員が担ってきた。
ここで隕石の概要,南極でなぜ隕石が発見されるかを記す。
隕石概論
鉄隕石 (iron meteorite)
主に金属鉄(Fe-Ni合金)から成る隕石である。分化した天体の金属核に由来する。
ニッケル含有比と構造から,ヘキサヘドライト (hexahedrite) ,オクタヘドライト (octahedrite) ,アタキサイト (ataxite) に大きく分けられる。
オクタヘドライトには,数百万年の時間スケールでの冷却によって生じるウィドマンシュテッテン構造が特徴的な模様として現れる。
大型の鉄隕石(ホバ隕石,ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/28/The_Hoba_Meteorite_near_Grootfontein.jpg
ウィドマンシュテッテン構造(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/36/Widmanstatten_hand.jpg
石鉄隕石 (stony-iron
meteorite)
ほぼ等量のFe-Ni合金とけい酸塩鉱物から成る隕石である。分化した天体のマントルに由来する。
パラサイト (pallasite)
とメソシデライト (mesosiderite) に分類される。
石鉄隕石(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5e/Inseki34.JPG
石質隕石 (stone
meteorite)
主にけい酸塩鉱物から成る隕石である。
球粒状構造のコンドルール (chondrule)
があるコンドライト (chondrite) と,ないエイコンドライト (achondrite) に大きく分けられる。
コンドライト(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3c/Chondrules_grassland_1.jpg
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南極隕石
南極大陸で大量の隕石が採集されている。
以下,吉田(2020,極地56巻1号)とウィキペディアから紹介する。
南極隕石略史
1966年の隕石カタログによるとそれまでに登録されていた隕石の総数は約2000個である。
1969年,日本の南極観測隊がやまと山脈近くの氷原で9個の隕石を見つけた。
1973年に12個を見つけた。
南極の山脈近くでは隕石が集積するらしいとなり,組織的に隕石探査・採集を行うこととなる。
1974年,初発見と同じ地域で663個の隕石が採集された。
この日本の成果から他国の南極観測隊でも隕石探査を行うようになった。
2021年段階で,採集された南極隕石は6万個を超える。
南極隕石調査(国立極地研究所)
https://www.nipr.ac.jp/jare-backnumber/research51/inseki.html
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南極隕石氷河運搬集積機構
南極隕石は,南極横断山脈ややまと山脈など南極大陸にある山脈の,麓の裸氷帯で見つかることが多い。
隕石は山脈の麓によく落ちるということはなく,南極大陸全体に偏りなく落ちる。
氷河も氷床もゆっくりと川のようにより低い方へ流動し,隕石も一緒に移動する。
氷河のうち,山脈にぶつかったものは山脈を登る。上昇しきって氷面は,削剥・消耗・昇華する。
しかし含まれている隕石はそのまま氷の上に留まり,山脈付近に集合する。
隕石集積機構(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ca/Icemvmt.png
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問S1
隕石を科学的に研究する意義は何か。
(回答をまとめの下に記す)
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南極隕石の意義
・個数が多数であることで隕石研究に重要な変革をもたらした。
氷上に集積した隕石が種類にかかわらずすべてが採集され,地球に落下する隕石の種類構成を知ることができる。
南極以外の地域では,鉄隕石は地上の岩石と際立って異なるので見つけやすい。ところが石質隕石は地上の岩石の中に紛れると隕石として認めにくく,地上に落下する隕石構成比に反映しにくい。南極では,氷原上にあるため,地上の岩石と似ていても隕石として見つけやすい。
・南極氷原に落下した隕石は,低温下で氷漬けになる。
このため,風化作用や汚染作用から免れるため,精密な化学研究を可能にする。
南極の裸氷状の南極隕石(ウィキペディアより)
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まとめ
隕石は惑星間の小さな固体物質が地球に突入し落下したもの。南極で大量に見つかっている。
問S1 回答例
地上で入手できる地球外物質であり,太陽系の起源や進化を調べる上で重要な試料となる。
例えば,地球形成の復元には隕石の情報が大きく寄与している。
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以上
付録:
・本の万華鏡:国立国会図書館の蔵書へ導くサイト。
白瀬矗,南極へ −日本人初の極地探検
https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/19/
・小説紹介:
「サスツルギの亡霊」(2005年,講談社) 著者 神山裕右(かみやま・ゆうすけ)
サスツルギ:強風によって雪原の表面が削られ,風向きに沿って形成される浮き彫り模様。ロシア語のzastrugaに由来。
作家神山の紹介:1980年愛知県生まれ。名古屋経済大学法学部卒業。2004年,「カタコンベ」(講談社文庫)で第50回江戸川乱歩賞を24歳3ヶ月,史上最年少で受賞し,デビュー。
・E-book 理科のおさらい‐気象‐
1章 3.オゾン層の問題
https://elib.maruzen.co.jp/elib/html/BookDetail/Id/3000007745?4
動画:南極観測支援(海上自衛隊)17分(平成28年出発)
https://www.youtube.com/watch?v=rQPBNUdPXC4
動画:南極物語 3分17秒 基地に犬を残す一次隊の苦悩
https://www.youtube.com/watch?v=93XFgcyaP6A
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遠隔授業の場合の課題
1.人類で初めて南極点に到達した隊の隊長は誰か。どこの国か。
2.日本の南極観測隊が私たちの生活にもたらした商品あるいは成果は何か? 一つ上げる。
3.質問や感想があれば記す。
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以下余白