地質列伝:ラファエル・パンペリーとロイ・アンドリュース
1モンゴル概略
2モンゴルの地質調査史
3パンペリーの日本,中国,モンゴル踏査記
4 アンドリュース,モンゴルで恐竜の調査
・モンゴルは内陸国で,北はロシア,南は中国と接し,現在は鉱業が主たる産業
・パンペリーは幕末に日本で地質調査を行い,その後中国とモンゴルを縦断
・アンドリュースは日本で鯨を調査,その後モンゴルで多くの恐竜化石を発見
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1モンゴル概略
位置:モンゴルは内陸国で,北はロシア,南は中国と接する。
人口:国全体で341万人(2021年),愛知県の半分
面積:156.4万平方キロ,日本の4倍
首都:ウランバートル(人口164万人,2021年)
主要産業:鉱業,牧畜業,流通業,軽工業
略史:
1911 辛亥革命,清朝からの独立を宣言
1924 活仏死去に伴い人民共和国を宣言し,社会主義国に
1990 複数政党制を導入,社会主義を事実上放棄,民主化・市場経済化の道を選択
1992 モンゴル国憲法施行(国名を「モンゴル国」に変更)
2モンゴルの地質調査史
英雄の時代
R. Pumpelly (米):最初にモンゴルを踏査した地質専門家。1864年,タバントルゴイの石炭を報告。その前は,幕府に雇われ北海道調査
V.A.Obruchev (露):1892年から60年間調査。1957年にモンゴル全土の地質図完成
R.Ch.Andrews (米):1922年〜1930年,ゴビ砂漠で恐竜やその卵の化石を発見
モンゴルの初期の地質調査では,アンドリュース隊のことが多くとりあげられるが,19世紀なかばのパンペリーの踏査記は時代背景も加味するともっと注目されて良いかもしれない。
社会主義時代
1925年,ロシア科学アカデミーにモンゴル科学委員会設置,西モンゴルの調査始まる
1939年,鉱山鉱物資源トラスト(後の地質調査所)と科学委員会に地質研究室(後のモンゴル科学アカデミー地質研究所)設立
1950年〜1969年,ズンバヤン油田生産
1965年,シャリンゴル石炭鉱山操業開始
1968年〜,地質調査隊図幅調査盛んになる
1978年,エルデネット鉱山本格的操業開始。銅とモリブデンの鉱山。
1978年,バガヌール石炭鉱山操業開始
エルデネット鉱山(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/76/Erdenet_10.JPG
社会主義崩壊後10年位
1990年代前半より,日本が関与(地質調査所,金属鉱業事業団,林原自然科学博物館)
1992年シビーオボー石炭鉱山生産開始
1997年鉱業法改正で外資系鉱山会社参入が容易になる
オユトルゴイ鉱床,2002年よりアイバンホーが探鉱権譲り受ける
タバントルゴイの石炭に各国が注目
ウラン鉱床にも注目等々,賑やかになる
学術面は百家争鳴,日本から多数のグループ
補足:モンゴル地質調査80周年記念
社会主義時代はソ連指導の下,地質資源調査が行われ,鉱山の開発が行われた。
1939年のモンゴル内の地質調査や研究組織の設立は,モンゴル地質元年で,2019年10月にモンゴル地質80周年記念式典が国会議事堂講堂で行われ,大統領のあいさつなどがあった。1000人くらいが集まった。現地の北米系企業のほか,ロシア,北朝鮮,韓国,インド,日本などからの参加があった。
モンゴル国会議事堂(ウィキペディアより),この中の大講堂で80周年記念式典が行われた。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a8/Panorama_Ulan_Bator_12.JPG
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3パンペリーの日本,中国,モンゴル踏査記
3.1パンペリー (Pumpelly, Raphael 1837.9.8-1923.8.10)
・ニューヨーク州オスウェゴ(Oswego)生まれ
・アメリカの地質学者,鉱物学者,探検家。ドイツのフライブルグ鉱山学院で地質学を学ぶ。
・卒業後1960年からアリゾナ銀鉱山で鉱山技師として働いたのち,日本の徳川幕府から北海道の鉱物探査の要請を請けてブレイク(W.P .Blake)とともに来日(1861〜63年),北海道の地質調査を行い,函館で採掘法,溶掘法を教授した。
・1863年に中国政府の招きで中国各地の地質や炭田の調査に従事し,1864〜65年にはゴビ砂漠を調査,長江を旅してモンゴル,シベリアを経てペテルスブルクにいたった。1866年に調査報告を著す。
・南北戦争後にアメリカに帰国し,1866年にはハーバード大学教授となり,ミズーリ地質調査所などで勤務した。
・1903〜05年には,カーネギー財団の資金によってトルキスタン探険を指揮し,イラン国境に近い南トルクメニスタンにおいて紀元前約3000年に遡るアナウ遺跡を発見,そこから小麦の栽培を示す器物や美しくデザインされた陶器などを発掘した。
・1905年アメリカ地質学会会長に就任。
・低温の変成鉱物パンペリアイト(パンペリー石,pumpellyite)は,彼の名にちなんで名づけられた。
(国立情報学研究所,東洋文庫アーカイブより転載,一部加筆)
ラファエル・パンペリー
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/dc/Raphael_Pumpelly_%281837-1923%29.JPG
1909年ころのオスウェゴ(パンペリーの出生地),ウィキペディアより
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/03/Oswego_NY_c1909_LOC_pan_6a14162.jpg
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問題1
モンゴルが社会主義だったころ,1978年から操業を開始した銅鉱山は何と言うか。
(回答例 次のまとめのあと)
まとめ
「モンゴルでは20世紀になってからの社会主義時代に地質調査や鉱山開発が本格的に行われました。この近代化の前の19世紀半ばの地質黎明期に,米国の地質専門家パンペリーは,幕末の日本,中国を経て,モンゴルを踏査しました。パンペリーは20世紀初めにはトルキスタンの遺跡調査を行いました」
問題1
回答例:エルデネット鉱山
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3.2パンペリー,米国から日本へ
「パンペリーの日本滞在中のあらまし。
テキサスから命からがら脱出しカルフォルニアにたどり着いた。たまたま日本から地質の専門家派遣の要請があったので,ブレイクとともに日本に向かった。1862年2月21日横浜着,5月9日箱館着で,それから約半年,現在の北海道南西部渡島半島をフィールドの地質調査や鉱山開発の指導を行なった」
参考文献:パンペリーの踏査記
Pumpelly
(1867) Geological Researches in China, Mongolia, and Japan during the years
1862 to 1865. The Smithsonian
Institution, 143 p, 9 plates.
Pumpelly
(1870) Across America and Asia: Notes of a Five Years' Journey around the
World, and of Residence in Arizona, Japan, and China, 454 p.
藤川 徹・伊藤 尚武訳(1982)シュリーマン
日本中国旅行記/パンペリー 日本踏査紀行.新異国叢書 第II輯 第6巻,350 p.
1860年の前半,パンペリーはテキサスの銀鉱山の調査を行っていた。インディアンに襲われ同僚が殺害される中,メキシコに逃れ,それからカルフォルニアにたどり着いた。
テキサスの帰属は混とんとしており,またインディアンの襲来の懸念があった。
テキサス共和国,1836年にメキシコから独立。1845年に米国が併合してテキサス州となる。
(ウィキペディアより)
1861年4月23日 文久元年三月十四日
幕府は米国に技術協力を依頼する。
箱館奉行村垣淡路守・津田近江守:蝦夷地における鉱山開発のため米公使 Harris に鉱山技師の周旋を依頼した。
この依頼にカリフォルニアにいたブレイクとパンペリーが応え,1861年11月23日 文久元年十月廿日,米国を出発した。途中,ハワイを経由し, 1862年2月21日 文久二年一月二十三日に横浜着。船上からの富士山の美しさに感動した。
当時の横浜
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/09/1853Yokohama_01.jpg
1858年,ペリー一行が横浜に上陸したようす。当時の横浜は寒村だった。(ウィキペディアより)
パンペリーが横浜に着いた頃,幕末の物騒な頃で自由な行動は困難,横浜周辺を散策するにとどめ,日本文化に親しんだ。季節が良くなり,北海道へ向かう。
1862年5月9日 四月十一日 Blake, Pumpelly, Rice(米箱館事務官):箱館着。
現地では地質調査や鉱山開発の指導を行う。
現地調査は2回行われ,北海道西南部の渡島半島の主要ルートを踏査している。
ブログ「つれづれ日米歴史散歩」にそのルートが載っている。
http://www.japanusencounters.net/sub_pumpellyroute.html#map
(著作権の制限があるので,地図を利用する際は,許可が必要)
パンペリーは調査ルートの北縁の茅沼(かやぬま)炭田の精査を行っている。
茅沼炭田
1856年 現地民が発見
1862年 パンペリーが良質の石炭を産出することを確認した。
この鉱山は,開発や休山を繰り返し,1969年に閉山した。場所は泊原子力発電所の近くである。
茅沼炭鉱のようす(泊村HP)
茅沼炭鉱 - 泊村公式ホームページ - Tomari Village
滞在中に箱館に鉱師学校を開校し,地質や鉱山についての講義や実習を行った。同行した日本人を米国に送り勉強させたかったが,米国は南北戦争で混とんとしていたので実現しなかった。
1862年12月4日 文久二年十月十四日 十四日
Blake, Pumpelly:契約終了。パンペリーらは延長を希望したが,幕府は崩壊前で雇用する余裕はなくなっていた。新しい時代幕開け前夜である。
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問題2
パンペリーらは日本到着後蝦夷(北海道)で地質調査や鉱山開発の指導を行った。その際,石炭の質などを調査し,その後100年以上も開発された炭鉱の名前は何か。それ以外にも北海道の炭鉱で知っているものがあればそれも記す。
(回答例 次のまとめのあと)
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3.2まとめ
「パンペリーは1862年5月9日箱館着後,約半年,現在の北海道南西部渡島半島をフィールドとして地質調査や鉱山開発の指導を行なった。その踏査結果は,明治になってからの北海道の地質図の基礎資料となる。また,茅沼炭田の調査を行い,優秀な炭田であると評価した」
問題2 回答例
茅沼炭鉱
そのほかの炭鉱として,例えば,石狩炭田,夕張炭田,などが有名。
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3.3 中国を経てモンゴルへ
「パンペリーは,中国の要請で中国の炭田を調査した。終了後,一時,長崎に逗留し,再び中国へ渡り,北京から北上してモンゴルを縦断する。12月に入り,気候はきびしかった」
中国で炭田調査
1863年2月末 文久三年一月上旬 Blake, Pumpelly長崎着
Pumpellyは長崎に滞在するが,Blakeは別行動となり,ここで別れる。
同年3月末 二月上旬 Pumpelly上海着,揚子江をのぼり中国奥地を踏査
1863年 中国政府の要請で炭田の調査を行う。
調査した炭田:Ching-hui Coal Mine,パンペリーはこの炭田の地質断面図を報告に載せている。
1864年春,長城に向かう。そこから西へ向かう。
万里の長城(ウィキペディアより)
パンペリーの報告にはこの長城を描いたと思われる挿図がある
西に向かう
パンペリー,長城から西へ向かいモンゴルの境界付近を踏査する。中国政府から旅行の許可証を得られないが実行。同伴者はパンペリーの中国人召使,ロシア公使館Pogojeff医師とその連れのコッサク。
パンペリーが国内旅行を強行した背景:1856-1860アロー戦争 英仏と清の戦争,1858天津条約,1860北京条約を経て,清は外国人の中国内地旅行の自由を認めるようになった。
村人とのトラブルと村人への診療
ムクオチング(Murh-kwo-ching)で,農家に無理にでも泊まろうとして村人たちと争う。
女性たちの罵り。「家を出て行け!」「無礼者たち,赤毛の悪魔ども!」「どんな権利があって人の家に泊まるのだ?」
農家の息子は病気持ちであるということなので,ドクターを紹介する。ドクターは,その息子に優しく接する。母親は心を打たれ,部屋を提供し,馬のために馬屋を用意,そして夕食を準備する。
・翌朝には周辺から多くの人が押し寄せ,この農家は診療所と化す。ドクターはできる限りのことを,特に眼病を積極的に治療する。
北京から長崎へ
1864年5月,北京から上海に着く。Thomas Walshと一緒に秋の初めにタタール(モンゴル)とシベリアを経由した帰路をとることを計画。
長崎で,John G. Walsh(Thomas Walshの兄弟)のもとで快適に夏を過ごす。
日本国内の内乱や外国人襲撃は遠い事件である。
Walsh氏は領事として忙しくなり,モンゴル縦断が当初の予定より遅れる。
日本国内の内乱や外国人襲撃の例:
1863年薩英戦争,1864年池田屋事件,禁門の変,蛤御門の変,第1次長州征討,四国(英・米・仏・蘭)連合艦隊下関砲撃事件
下関戦争,1863-1864 長州と列強四国との衝突
連合国に占拠された長府前田砲台(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a8/Choshu-Battery-Capture-Shimonoseki-1864.jpg
長崎から北京へ
長崎を出港し東シナ海に。数日は良い天気で,コリア半島を右手に見て黄海に入る。クラゲの大群を船上からながめる。山東半島近くで天候が悪くなり,嵐の中,コリアの海岸と山東半島の間の海域を北に向かった。数日過ごしてからペチェレ(Pe-chele)湾に入る。小舟に移り北京に向かう。
モンゴルへ向かう
北京で準備
首都北京,米国公使館書記官St. John氏が隊に加わる。車両(カート)の調達を行う。ロシアの牧師Gen.
Vlangali氏が多くの紹介状を用意する。
11月12日 出発,北京から張家口
出発してすぐに峡谷となる。ラバに荷物を移し替え進む。シャホー(Shaho,昌平) 。ナウカン(Naukan)に着く前に馬が蹄を痛める。張家口,北京から4日でカルガン(Kalgan, Zhagjiakou,
張家口)に着く。キャフタ(Kiachta)まで先導できるモンゴル人を探す。
張家口
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f2/Kalgan_1698.jpg
張家口(1698年),ウィキペディアより
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f5/Changping_gate_in_Zhangjiakou.jpg
張家口市の市轄区,宣化区,宣化古城の昌平門(ウィキペディアより)
吹雪の中,モンゴル高原へ
11月21日午後4時吹雪の中モンゴル高原に向かい出発
踏査隊,らくだ26頭,車両(カート)は4台(寝台兼用)。行動は1日のうち17時間を移動にあてる。カートは2輪でスプリングはない。横3フィート(0.9m),縦7フィート(2.1m)の大きさである。車両はたっぷりと毛布で覆われている。長いシャフトをらくだのサドルで支える。
フタコブラクダ(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/83/Camel_in_Mongolia.jpg
モンゴル高原,寒さとの戦い
出発当初の2-3日は,まだ体が慣れておらず,寒さとの戦いであった。
車両の中は外気とほとんど同じ温度である。風がさえぎられているだけである。毛布や毛皮は異常に冷たくなっていて素手ではさわれない。
ゲル(yurts,移動用住居)
4日目,タタール馬に乗り隊列を離れ,立ち上る煙へと向かった。谷あいのゲル集落である。ゲルに入ると温かいお茶を準備してくれる。大鍋を火にかけ脂を溶かし,水を入れて沸かし,固めた茶葉を削り塩とともに入れ,羊の脂肪を加える。木製の器に注ぎ,卵大のチーズの塊を入れて供してくれる。
現代的なゲル(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9a/Yurt_with_a_satellite_dish_and_a_solar_panel.jpg
地質観察
11月27日午前,ミンガン(Mingan)の丘で変砂岩,クォーツァイト,石灰岩を観察する。これらの地層の傾斜は急である。広い平原は砂礫でおおわれ,礫にはカルセドニー,メノウ,紅カルセドニーが認められる。
野営中の食事
先行隊が設営した野営地にわれわれは到着し,食事の準備となる。日の入一時間前に到着し,動物に餌を与える。動物たちは,朝まで休息となる。大天幕は隊全体の共用,中天幕ではモンゴル人が三脚を広げ大鍋を用意し,火を起し食事を準備。別にパンペリーらの食事用の火を起こす。
食事:主にスープ料理。雪を溶かした水にカルガンから持ち込んだ野菜(凍結している)を入れ,途中でモンゴル人から購入した羊,馬,牛の新鮮な肉を入れる。そして羊の尾の脂肪分を加える。さらに缶詰の豆,スープ,ソーセージ,鮭,トマトを鍋に加える。
コーヒー:食事の他にコーヒーを作るが,翌朝分を含め多めに用意する。朝のコーヒーのために水筒に入れ,できるだけ冷めないよう(凍らないように)毛布にくるんでおく。
代表的な大衆モンゴル料理:
ホーショール(ウィキペディアより) ミートパイ
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/97/Khuushuur%2CMongolian_Ulaanbaatar_style.JPG
ツォイワン(ウィキペディアより) 蒸し焼きうどん
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6d/Tsuivan.jpg
モンゴル人と口論,ピストルを出す
12月6日,ラクダ使いが居眠り,1台のカートが転覆して片方のシャフト(車軸)を壊してしまう。カートの持ち主とラクダ使いのモンゴル人の間で口論,英国人はピストルを出す。村から集まっていたモンゴル人は,英国人のピストルを見た途端,長いナイフを抜き,ラクダ使いのモンゴル人側に立つ。
この騒ぎに,St. Johnのカートを引くラクダが驚いて走り出し,カートは岩場で跳びはね,その勢いで車輪が外れ飛んでしまった。これを見て,怒っていたカートの持ち主は笑い出し,一触即発の雰囲気は和んだ。
正直なモンゴル人
跳ねた車両のポケット部に入れた金貨が心配。飛び跳ねたカートの周りに12-13人ものモンゴル人が既に集まっているので,現金は戻りそうもないとあきらめる。
見ず知らずのモンゴル人が大声で呼んでいる。彼はカートが飛び跳ねていった跡を一人で掘り起こしている。その場所に行ってみると彼のそばに英国金貨が積み上げられている。砂がかぶった金貨を集めている。全く減っていない。
モンゴルの人々の正直さを認識する。仏教徒には「汝,盗むことなかれ(Thou shalt not
steal)」が,われわれのような文明化している人々よりもっと広く浸透しているのである。
ウルガ(ウランバートル)到着
12月11日,火山岩からなる丘で頂上は平坦である。
12月12日,景色が変わり,広い谷を上る。周囲の丘は粘板岩からなる。平原や谷は,礫質である。丘は,比高300-500フィート(90-150m)の高さでピラミッドのような形をしている。松の林が発達しているところがある。これらの丘の間を進み,トーラ川(Tola river)に至る。この川はウルガ(現在のウランバートル)に流れている。
ウルガ在留のロシア領事,M. Chischmareff宅へ,紹介状を持参して向かった。家は大きな二階建ての丸太作りの家である。Chischmareff領事は不在だったが,彼の妻と秘書のM. Borzakoskyに会うことができ,書状を渡す。
注:現在のモンゴルの首都,ウランバートルの名称は社会主義になってから。「赤い英雄」という意。
ウランバートル市街を流れるトーラ川(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/67/Ulanbator-Panorama.jpg
ウルガ(ウランバートル)市内
12月13日,ウルガ市内を歩いてみる。人口16000,半分がラマ僧からなる。大僧正はチベット人で16才ということである。その宮殿の屋根には金箔の塔と玉が飾られている。市内には,多くの大きな建物が目につく。あるものは,大きなゲルで,30-40フィート(9-12m)の高さで,径60-70フィート(18-21m) である。大きな寺に入ると金や銅で覆われた木彫りの仏像がある。ここでは他の寺と同様に祈願用の円筒具(マニ車)が入口すぐにある。
ウランバートル市内にあるガンダン寺(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Zesp%C3%B3%C5%82_klasztoru_Gandan_%2812%29.jpg
モンゴルの仏教(パンペリーの感想)
モンゴルの仏教を少し論じてみる。仏教の教えはチベットから直接モンゴルに入ってきていて,インド,中国,日本などのように途中から変質した仏教とは異なる。モンゴルでは,それまでの土着宗教(シャマーニズム)によって少しは変質するが,それでも他の国々の宗派よりも純粋さを保っている。モンゴルでは仏教の教えがよく浸透している。
かつてチンギスハーンとその子孫のモンゴルは,アジア全土と東ヨーロッパの王朝を倒し,さらに北極海沿岸にまで及んだ。この好戦的であった人々は,今は世界でもっとも平和的な人々となっている。
ウルガからキャフタへ,途中で新婚のロシア領事夫妻とすれちがう
12月14日,ウルガを発ちキャフタへ向かう。
12月15日,気温華氏-20°(-29℃)の中,2人のヨーロッパ人を乗せたカートが我々の方に向かってくる。北京のロシア領事Papoff氏とその花嫁のロシア女性である。南下して中国に向かっているところである。この厳しい気候の中の移動ではあるが,幸い,彼らは南に向かっているので追い風となり,また,日射を正面から受けるのでそれほど辛くないかもしれない。
ロシア国境に至る
12月21日午前,森を抜けると,キャフタとマイマイチン(Mai-mai-chin,アルタンボラク)の二つの都市が見える。
マイマイチンはモンゴルの最前線,街の様子は中国風で,中国の家並み,小奇麗な着こなしの中国人の街で,再び中国にもどったかと錯覚する。ここにはいくつかのキャラバンがいて,野営して留まっているもの,到着したばかりのもの,これから旅立つものなどである。
中国の担当官がパスポートを検分し,キャフタへ通行許可となる。モンゴル側とロシア側は壁で仕切られている。キャフタの家には柵があり,街には教会があり,住民はヨーロッパ人である。
アジアからヨーロッパ社会に踏み入れたこととなる。
まとめ
パンペリーのモンゴル縦断(1864年)
11月12日 北京
11月29日 中国とモンゴル国境
12月12日 ウルガ(ウランバートル)
12月21日 マイマイチン(キャフタ)
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問題3
パンペリーの時代,ウルガという地は現在の首都ウランバートルである。ウランバートルは日本語でどんな意味か・
(回答例 次のまとめのあと)
3.3 まとめ
パンペリーは,中国の炭田を調査し,一時,長崎に逗留し,帰路の準備をした。再び中国へ渡り,北京から北上してモンゴルを縦断し,ロシアに入りヨーロッパへと向かう。モンゴル縦断の時期は12月で気候はきびしい。その間,モンゴルの住居を訪ねたり,寺院を訪ねたりした。また,モンゴル人の正直さに感動することもあった。この間の地質観察結果は貴重な情報となりました。
問題3回答例
赤い英雄。社会主義を象徴する地名である。
3.4 トルクメニスタン遺跡調査
モンゴルを通過した後,シベリアを経てペテルスブルグに至った。南北戦争後にアメリカに帰国し,1866年にはハーバード大学教授となり,ミズーリ地質調査所などで勤務した。1903〜05年には,カーネギー財団の資金によってトルキスタン探険を指揮し,イラン国境に近い南トルクメニスタンにおいて紀元前約3000年に遡るアナウ遺跡を発見,そこから小麦の栽培を示す器物や美しくデザインされた陶器などを発掘した。
トルクメニスタンの位置図(ウィキペディアより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/Turkmenistan_adm_location_map.svg
アナウは,首都アシガバードの南東8kmに位置する。トルクメニスタンの都市で,アハル州の州都である。2012年の人口は30,865人。
アナウ付近にあるアナウ遺跡は北丘,南丘,アナウ・テペ(テル,遺丘)からなる。紀元前3000年にまで歴史をさかのぼる。人類最古の農耕集落の一つとされ,青銅器時代から初期鉄器時代にかけた時期の彩文土器が見つかっている。
トルクメニスタンの古代都市アナウ遺跡(トライブ・ログから)
http://tribe-log.com/gallery/1841.html
http://tribe-log.com/gallery/1843.html
紀元前3000年前の人類最古の農村集落の跡として知られる。
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動画:
モンゴル遊牧民(41秒)
モンゴルの牧草地脆弱性 (国立環境研究所2021/12/28 2分28秒)
https://www.youtube.com/watch?v=idby7Diuluw
モンゴルの再生可能エネルギー(英語)
Mongolia, with Japanese
backing, to focus on renewable energy (2min 31sec)
https://www.youtube.com/watch?v=nmg6iyyml2w
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4 アンドリュース,モンゴルで恐竜の調査
(参考文献)
Roy Chapman Andrews
On the Trail of Ancient Man - A
Narrative of the Field Work of the Central Asiatic Expedition. G. P. PUTMAN'S SONS, 1926.
この書は翻訳されて世界各国で読まれている。日本語訳は以下の文献である。
世界探検全集11
アンドリュース 恐竜探検記(齋藤常正
監訳・加藤 順 訳),pp.337.
河出書房新社,1978
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ロイ・チャップマン・アンドリュース
1884年 米国ウィスコンシン州ベロイトで生まれた。
1906 ベロイトカレッジ卒業,すぐにアメリカ自然史博物館雑役夫
1907-1913 アラスカ,ブリティッシュコロンビア,朝鮮,日本と飛び回り鯨の標本を集める
この間,
1909−1910年 海軍の船に乗り西インド諸島を調査
1911-1912 北朝鮮白頭山調査,これが鯨からモンゴルへ転身の機会。
このころ哺乳動物学部副主事までに昇進しているが,鯨を語ることをやめ,中央アジアを話題とする
1916 中国南西部とビルマを探検。
1919 中国北部とモンゴルの予備調査。
1921-1930 中央アジア探検隊長
1941 博物館を退く
その後は著述に専念し,
1960 没
アンドリュース(ウィキペディアより)
Roy_Chapman_Andrews_50488r.jpg
(3890×5090) (wikimedia.org)
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日本と朝鮮での行動(宇仁・櫻井より)
1910年 訪日(長崎着,入国)
和歌山県紀伊大島シャチなどの骨格採集
宮城県鮎川でイワシ鯨調査
ロイ・チャップマン・アンドリュースは,1910年,鯨類調査のために日本を訪れている。和歌山県の紀伊大島や宮城県の鮎川でクジラやイルカの標本を収集する傍ら,捕鯨の手順を事細かに観察した。以下の写真は1910年4月に紀伊大島で撮影された。標本は米国自然史博物館に送られた。
米国へ送られたクジラの頭骨 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト (nikkeibp.co.jp)
(ナショナルジオグラフィックより)
1912年 (韓国)蔚山(うるさん)でコク鯨調査
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講演で基金を募る
彼は,広報活動家かつ講演家であった。
1910年代 各地で講演し,人々の興味を引き起こした。
「鯨をカメラで追って」「北朝鮮の荒れ野」「美しい日本の景観」等々。
このような実績からモンゴル探検の経費を寄付で民間から募ることができた。
探検隊の第一目標は,人類の祖先,原人をさぐることにあった。この原人を発見できるかもしれないという話は大金持ちが興味をそそり基金の調達ができた。
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中央アジア探検
1919年 予備調査で中央アジアは哺乳類の故郷,中生代の恐竜発生の地であることを見出した。講演を通じ25万ドルの探検費用を独力で集め本格的な調査隊を組織化する。
1921年4月21日「中央アジア探検隊張家口を出発。
隊員総数40名,自動車8台,ラクダ125頭。
アンドリュースのストックフォト
12点のDr Roy Chapman Andrewsのストックフォト - Getty Images
当初の目的,原人の化石をモンゴルで発見できなかった。そのかわり,古生物学分野でいくつかの大発見をした。
ウランバートルの南500kmほどのゴビ砂漠の「燃える崖(フレーミング・クリフ)」が化石の宝庫である。地名はバイン・ザックという。
この崖が世界に知られるようになったのは,恐竜の卵の見つかったことによる。ある卵の殻のなかには恐竜の子供がおさまっていた。
1923年6月23日 ゴビ砂漠から恐竜の卵を発見(世界初)
このように中央アジア探検隊は数シーズンの調査を行う。
ゴビ砂漠(ウィキペディアより)
OmnogoviLandscape.jpg
(1683×1031) (wikimedia.org)
化石産地,バヤンザック
恐竜の卵が見つかったゴビ砂漠の化石産地。モンゴル南部バヤンザグ地域 | 地学博士のサイエンス教室 グラニット
(watanabekats.com)
中国や世界には暗雲がたれこめてきた。
1928年,中国国民政府蒋介石は張作霖を北京から追放,中国を統一。
1929年,世界大恐慌,米国でも寄付を募るどころではなくなった。
1930年,中央アジア探検終了。
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アンドリュースその後
1934年 自然史博物館館長就任
1941年 退職
1942年 自伝の執筆
1960年 没
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